Complete text -- "a's(あ’ず) 34号"

05 April

a's(あ’ず) 34号



 佐藤洋子さんの詩誌『a’s』34が届きました。それも二冊、感謝です。一冊は、佐藤洋子さんから、もう一冊は新田一文さんからです。色違いなので、どちらも大変れしいです。




 新田さんからの私宛の添え書きメモを読む限り、新田さんはジャズに造詣が深そうです。そして、今号には「テイク・ファイブ」というジャズの有名なヒットナンバーを題名にした作品を発表しています。新田さんの言葉は、デイブ・ブルーベックの奥さんが、曲が世に出た後に付けた歌詞の内容との対比で読むと面白いです。

 たった5分、それも本当に無駄な5分かもしれないけれど、その何でも無い時間が必要なのよと、どちらの作者も言っています。「なんでもない」こととは、新田さんの詩の真骨頂ですね。そして、真骨頂と言うのなら、次ページの「うつらうつらの哲学」の作品の方が、新田さんらしい作品だと思いました

 。ちょっと失礼かなと思いますが、最初の行と最後の行だけを引用させていただきます。

   ごろりと横になって考えてみるに

           (中略)

   うつらうつらは極楽の入り口なりとの考えに至る

           詩「うつらうつらの哲学」最初と最後の1行

 この引用の間の(中略)の中に、「ごろり」、「ぽかぽか」、「ついつい」、「うとうと」、「うつらうつら」という擬態語や擬声語による言葉が詰まっています。

 なにやら魔法の言葉をかけられた気持ちになります。そして、行の中に「死」という言葉がちょっと現れます。なんとはなく、読んでいると、人はこんなふうな感覚で生きている、生きること、死ぬことができるのだろうなと思ったりしてしまいます。

 それが、幸福なのか、それとも不幸なのか解りませんが、思考しない感覚の言葉がすっと出てくること。状況をあえて作らなくても、あえて文章に装飾を凝らさなくても、読めることに感心します。



 一方、佐藤洋子さんは「水は、いつも結ばれようとして」という作品を発表しています。冒頭の第一連を引用させていただきます。

   真野川の、
   わたしを横切っていく足下を流れる水の、その水
   どこが、ひとつの個なのか水 / と呼びとめられるかたち

 真野川とは、福島県飯舘村を流れる川です。佐藤洋子さんの詩は言葉の音の響きが、意味以前の「存在すること」を成立させているものだと思います。とても理解できない部分が多いのですが、この冒頭の3行はすっと私の中に入ってきました。

 それは、どうしてか。冒頭の1行がいいのです。地名を呼ぶということは、地霊と交感するということなのかなと思います。地の霊は、水となって作者に、呼ばれることを待っていたということかもしれません。

 「真野川の」という言葉は、書かれたものではなく、佐藤洋子氏がその地で聞いて、呼んだ言葉なのだと思います。それが、この詩となって書かれていることで、彼女の中では意味を拒絶する絶対的な言葉が成立している、ということなのだろうと思います。理屈は要らない、といいうことでしょうか。地名は、様々な感情を孕みます。それが、その呼び名を聴いた人、それぞれで既に成立している言葉なのだと思います。

 新田氏が、私に送ってきた添え書きメモには、佐藤洋子氏の詩がとてもいいと思っていますと書かれていることは、こういうことだと思いました。つまり、新田氏のなにげない言葉が、佐藤洋子氏においては、一言、声を発するだけで成立してしまう、ということです。






 
16:26:34 | tansin | | TrackBacks
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