Complete text -- "金子忠政詩集『やがて、図書館へ』"

04 October

金子忠政詩集『やがて、図書館へ』



 この詩集への私の理解は、少々、捻くれているのもしれない。それは、詩集『やがて、図書館へ』が、私を含めたいわゆる詩人と称する者達への警告の刃(やいば)であり、その矛先は確実に私に向いていると、殺気を感じるからである。後にも、先にも、殺気を感じた詩集は、これを除いてこれまでにはない。そして、金子氏は、その前に、やさしく鈍器で私を痛打してくれている。



 




 例えば、冒頭の表題の作品「やがて、図書館へ」を読んでみよう。



   (術後、外の薄明かりを睨む日が続き、寝床で息をころし、
    その窓にうつる顔を含め、すべてをなくすことへとさまよい、
    例えば、君が死んでゆくというのに君を死なしめる幻影の中で・・・
    という具合に、鐘楼のような君の耳朶へ向けて、
    泣く者が泣かない者のように泣き、
    その後、大きないびきをかいて眠った)

              詩「やがて、図書館へ」冒頭6行



 さらに例えれば、この病人が年老いた戦士であったなら、これまでの長い戦いの日々の中で、疲弊し、傷を負い、戦場と化した市街地の病院で蘇生手術を受け、麻酔から目覚め、弾丸が飛び交い市民が血を流してさまよう外の惨状に思いを馳せているのならば、どうだろうか。身動きできないベッドの上で、なすすべもなくただその映像を脳裏に焼き付け、なおその様をぼんやりとした意識では見つめることはできやしないはずだろう。よって、「睨む」という凝縮した言葉が出てくる。

 そんな、なにもできない自分自身の存在を考えたのなら、いっそ何もかも自分を含め、すべて消してしまいたいと思ってしまうのだが。そうなれば、大切な君が死んでゆくというあってはいけないことが起きてしまうというであろうジレンマがまた生じてくる。そして、無力な自分自身を情けなく思い、じっと涙を堪えるのだが、できることはさらにまた泣きはらすことしかない。その連続の果てに、この年老いた戦士は、いっときの眠りに就く。

 そこからである。年老いた戦士は、もう一度、闘うために図書館へ向う。



   仄暗くである、
   そうでなければ意味のない
   孤独の完成のため
   正当に世界に抗う
   コトバ、岩の幻影が
   これから打ち砕かれる位置を確認するように
   向こうからこちらへ
   ゆっくりせり出してきて
   たちまち垂直の亀裂を走らせた
   その悲鳴の末端を
   額の正面に受肉した

             詩「やがて、図書館へ」4頁の行、全文




 やがて詩人は、コトバを武器にし、戦いの狼煙を上げる。

 今、世界中の至るところで繰り返し起きている理不尽な行為に対して、詩人、とりわけ日本にの詩人と称する者達(最低限平和ボケの私は確実に)は、無防備でいてはならないし、たとえ社会に目を見開いたとしても、ただ書斎や居間の団欒の中にじっとして、新聞やテレビのマスコミの報道に踊されているばかりでは、いざというときに過ちを繰り返さないかと言われれば、(繰り返してしまうということは)たかが知れている。さらにインターネットという、そもそもが原子爆弾と同じ、武装のための都合の良いシステムを事実誤認していては、詩語は闘いのための言葉の武器にはならない。

 この詩集は、そういう詩集であると、私は考える。相当に、私は捻くれているのだろう。さて、この詩集の中に収められている18篇の作品を読んでどれだけの人が、今の世の中に対し、私のように殺意さえ感じるに危機感を持つのだろうか。

12:32:13 | tansin | | TrackBacks
Comments

ヤドリギ金子 wrote:

 御批評、誠にありがとうございます。
10/04/14 19:31:55

tansin wrote:

 的外れな感想というか、詩集の宣伝のつもりなのですが、そんなこと当たり前ではないかと、バカなことを書いていると思われているでしょうが、ご勘弁ください。
10/05/14 07:30:23
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