Complete text -- "やまうちあつし詩集『may sing』"

19 July

やまうちあつし詩集『may sing』



 いったい、彼は誰に向って言葉を紡いでいるのだろうか。例えば、この詩集の冒頭の詩「迷信」、



   まよなかにめざめて
   カーテンを開けると
   青白い馬が
   庭をうろついている

      (後略)

             詩「迷信」冒頭4行


 一見、独り言のようでもあるが、確実にそれは走る馬でもなく、子馬でもなく、天を翔る馬でもない。それは青白い馬でなければならない。そういう必然が存在するということを、心の中に秘めるのではなく、敢えて言葉にして書き記す。あたかも誰かに縋るようなような言葉で、である。いや、そんなふうには読めやしない、と思われる方がほとんどなのかもしれない。しかし、





   少しだけ窓を開け
   ライフルをかまえる
   胸のあたりを打ち抜いて
   何事もなかったようにベッドへ

             詩「迷信」冒頭4行に続く中の4行


 自分でライフルを持ち出して、打ち殺さなければ消えないほどに、それは大きな意味を秘めている。自分ではどうしようもないことがそこに存在していると、感じさせる。さらに、一仕事やり終えて、ほっと安心してベッドに戻り、眠りに就くのかなと思うと、事態は違って、


   そんな夜には
   眠れない
   布団から顔だけ出して
   一晩中
   猫の目で天井を見ている

             詩「迷信」中4行に続く最終5行


 「眠れない」のである。確かに、ライフルで打ったのは、「青白い馬」ではなくて「胸のあたり」なのである。それは、青白い馬の胸のあたりであったのか、他の何ものかの「胸のあたり」であったのか定かではない。しかし、「胸のあたり」は「青白い」ところではないことは読後の印象としては、確信できる。さらに、青白いという表情は、ライフルで討っても生き物ではないのだから、消すことはできない。つまり、物質ではなく、心の中の迷いなのである。

 という風に無理強いして、読み解いてみる。

 やまうちあつしの詩は、謎解きである。答は、作者自身の中にしか存在していない。なぞなぞのように、どこかにあるはずのヒントは存在しない。だから、いったい誰に向って答を求めているのだろうか、と考えてしまう。

 一般的に、詩は言葉で見えないものを表現するものとも定義できる。しかし、やまうちあつしの詩の言葉は、みえないものを表現しようとはしない。言葉でなにかを表現しようとはしない。読む者の心の中に心地好いイメージを、あるいは震えるような感動を喚起しようとはけっしてしない。


   内ポケットから手帳を取り出し
   暗号を記録する
   一晩かかって嗅ぎつけたのだ
   約束の時間まであと五分
   場所はいつものX埠頭
   ここ数週間奥歯が痛む
   しかめ面はそのせいもある
   トレンチコートの内側に
   黒革の手帳を戻し
   俺もまた
   この街の虫歯なのだと
   嘯いて
   今日もまた
   歯医者に行かぬ

             詩「歯痛殿下」全篇


 関西弁でつまり、「(あなたは)はいた、でっか?」ということで、何も問題はない。誰も困らない。多分、作者も困らない。そうでなければ、むしろ何を言いたいのか、何を表現したいのかわからないという事態に陥り、混乱が生じる。つまり、全ての詩が暗号で書かれていて、なおかつ詩集自体が解読書となっている。そういうことであれば、最初の私の問い「彼は誰に向って言葉を紡いでいるのだろうか?」の答えは、自ずと導き出される。つまり、自分と同じ人間に向って言葉を紡ぎだしているのである。この広い世界の中で詩集を出し続けることで、もう一人の自分を捜している、それがやまうちあつしの詩の正体である、と言いたい。

 そのことを如実に示した作品が、「私はあなたを忘れないだろう」ではなかろうかと思うのである。この詩は、オノマトペとは明らかに違う。暗号でもあり、解読のための乱数表でもある。


   らくしゃ くてい あゆた ぴんぱら えがら あから

   さいしょう まばら あばら たばら かいぶん ふま

   ねま あげけん みかば ぴから ぴかば そうがらま 
  
   ぴさら ぴせんば ぴじょうが ぴすだ ぴばか ぴば
 
   てい ぴきゃたん しょうりよう いちじ

      (後略)


             詩「私はあなたを忘れないだろう」前2行部分


 至極真っ当で、純粋な人間としての自分の存在確認の作業が、やまうちあつしの詩集『may sing』なのだと思う。

 人は、自分の嘘、偽り、猜疑心、不安、妬み、自己嫌悪などなど、自分ではどうしようもない揺れ動く正体を、すべて受け入れてくれる人を求めている。出会いは、安心を与えてくれる。そして、また不安定になり、また探し求める。その繰り返しなのだと思う。

 言ってしまえば、強烈な自己主張なのだと思う。




16:22:29 | tansin | | TrackBacks
Comments

やまうちあつし wrote:

 丁寧にご批評いただき、ありがとうございました。「誰に向かって言葉を紡いでいるのか?」どきっとしました。確かに、誰に向かって書いているのでしょう。わからなくなってきました。詩を書いてどうするのだろう。誰に読ませるのだろう。読ませてどうするのだろう。考え出すとどうにも肯定的なビジョンは見えてきません。
 夏目漱石の「夢十夜」の中に、昔の仏師(運慶・快慶だったでしょうか)が木から仏像を掘り当てる、という話があったはずです。見物人の一人が「あれは作っているのではなく、もともと埋まっているものをただ掘り出しているだけなのだ」という解説をしていたはずです。
 詩を自分の考えを伝えるものとして使うのではなく、ただそこにあるもの、としてぽんと置きたいという気持ちがあります。場合によっては、それが強い自己主張になることもあるやもしれませんが。
 「全ての詩が暗号で書かれていて、なおかつ詩集自体が解読書になっている」なんて、かっこいい表現ですね。私の詩にはもったいないくらいです。お忙しい中、またなんだか読みにくかったであろうところを、感謝申し上げます。
07/19/14 17:58:28

tansin wrote:

 やまうちさん、とんちんかんな感想を読んでいただき、そして丁寧なコメントありがとうございます。「誰に向かって言葉を紡いでいるのか?」と最初に疑問を提示したのは、やまうちさんの詩集を読むためのとっかかりとして、まず自分が何を書いて良いのかわからなかったので、自己暗示をかけたということです。「誰に向かって」などという問いは詩を書くに当たって関係ないことだと自分は思っています。書きたいから書くだけですよね。その結果、自分の詩を客観的に見た場合、果たしてこの生まれた言葉は、何の意味があるのかということを生んだ者は考えてしまったりします(考えないようにしていても、つい考えたりします。そのままただ横に流すようにしています。)。自分の詩を発表するという行為と詩を書く行為は、まったくの別物で、発表するとなると「なぜ?」ということになります。私は「他人に認められたいから」です。
 仏師は宗教人ですから、仏の教えに従うということ、仏像を彫ることが得を積む(仏に仕える)ことになります。私のような俗人とは明らかに違います。棟方志功もそうですが、誰もが魅せられるような作品を生み出す方は、自分が作るという意識ではなく、天の声に従っているだけで、自分はただ夢中になっているだけです、みたいなことを言ったりしています。そういう境地になるためには、わずかばかりの才能と、一生を尽くすような継続した努力が必要なのかなと思います。
07/20/14 07:46:05
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