Complete text -- "詩誌『霧笛』第2期第32号について"

13 December

詩誌『霧笛』第2期第32号について



 詩誌『霧笛』第2期第32号が送られてきました。今年の7月末に大船渡を所用で尋ねる途中、編集人の千田氏に会うために気仙沼に寄り道して、街の中の小高い丘にある市立図書館に行きました。千田氏によれば詩誌『霧笛』の代表者は創刊同人である西条健一氏であるということです。




 千田氏が午前の仕事を終え、昼食済ませて執務室から出てくるまでの少しの時間、私は、図書館の中の迷路のような書架の間を、目当ての書物もなく、彷徨っていました。そして、なんとはなしに詩集が置かれている棚を通って、幾冊か手に取っていました。すると青い表紙の『美しい村』という詩集が目に留まりました。作者は、西条健一。

 ちょうど、夏の陽射しが強く、山の面影を残し今も生い茂る大木の影が建物の中まで伸びてきて、古い木造の建物の中にあって、その昼の時間は陰影が美しいひとときであったような気がします。そんな、優しい風も吹き渡る、木造の心地よさに包まれて、青い表紙の詩集の中の言葉を目にしたのでした。「ああ、これが詩誌『霧笛』原点なのか」と、一人、ため息をついて。

 それから、私の詩誌『霧笛』に対する思考は、緩やかに、いや直角に曲がったような気がしています。しかし、直角に曲がったのは、詩誌『霧笛』のことではなく、私の詩に対する思考なのかもしれません。

 変な前置きを書きましたが、詩はいわゆる現代詩でも、近代詩でも、戦後詩でも、恋愛詩も、未来詩でも、どんなものでも、今、読まれるものならば、「それは今の詩だ」と言い放つことは充分に可能だろうと思います。それと、逆に、読まれない詩は、時代が新しいものだろうが古いものだろうが、可能性を秘めた詩です。

 その間に分かれ目など、ほとんどないものと思います。何が良くて、何が良くないのか。何が古くて、何が新しいのか。それは、ひとそれぞれのことです。ただ、良いものは、「良い」と語るだけです。悪いものは、「悪い」と語っても良いのですが、どうしても人は、この世に自分のことを悪いという者がいることを気にしてしまうことが多いです。ただの何者とも比べようもないひとつの貴重な作品とは、なかなか割り切れないことが多いようです。

 また、関係のないことを書きましたが、西条氏の作品に強く感じたのは、「変わっていない」ということです。変化がないということではありません。「変わらない」ということも、時代が変わり、人が変わり、環境が変わる中では、相対的に変化していることになります。そのただ中で、自分の座標軸をしっかりと地に差し込んで、じっと立っている。そんなイメージです。だからこそ、見えてくるもの、見えてくる風景があります。

 例えば、一時期の心の揺れや、感情の変化、日々変わる繊細な人との関係、そんな日常の、いや非日常も含めた人の「生」の中で、溢れ出てくる言葉に透き通ったその人の内蔵のような分身が綺麗に表現されることも、とても素敵なことばの表現なのだと思います。しかし、それと同じく、一点で頑固に変わらないことも大切です。

 詩誌『霧笛』は、これからずっと変わって行くのでしょうが、西条氏のような方がきちんと座標軸としていることの強みを私はどうしても考えてしまうのです。そして、そこに千田氏などが、新しい風を吹かせている。とても、気持ちの良い詩誌です。

 西条氏が気仙沼の詩の鉱脈を受け継いでいる、あるいは掘り出しているとすると、その作業は、小野寺氏が確実に繋がっていると思います。その鉱脈から、他の方々の作品が編み出されて行くという構造にとてもうらやましく思います。


 
04:39:44 | tansin | | TrackBacks
Comments

千田基嗣 wrote:

西城さんのこと、確かな読みと思います。また、「美しい村」に出会ったこと、図書館の良き役割が果たせているかと思います。図書館という場所は、良い場所です。
 ところで、小野寺さんとは、我が同人小野寺正典のことですか?気仙沼では小野寺という名字のひとは山のようにいるので。
12/13/14 22:24:46

tansin wrote:

そう、小野寺さんは、正典さんにことです。鉱脈から取り出した結晶のようなものが及川良子さんなのですが、当然に私の偏見による偏った感想です。こういうことを考えて読んでいる人もいるということと、ご理解していただければありがたいです。
12/14/14 03:56:55
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