Complete text -- "詩誌『霧笛』第2期第30号"

13 July

詩誌『霧笛』第2期第30号



 発売からまもなくして私に送られてきましたが、雑事追われ、暫く本の山に隠れて見えなくなっていた詩誌『霧笛』第2期第30号を今日、取りだして読んでいます。

 この号の<編集後期>において編集の千田氏は、「今になって、どんどん、と言っていいくらいに同人が増えている。ひとつには、震災の後、語りたい思いがようやく顕在化してきたということもあるのかもしれない。」と書いています。これは、詩の書き手の一人ひとりの作品を丁寧に読んでみなければ、どういうことなのかわからないことなのかと思うのですが、詩は書くものではなく、語るもの、と暗に千田氏は言おうとしているのだろうかと思わずにはいられない言葉だと思いました。




 詩誌『霧笛』の、幾らか年数だけは長い付き合いをさせていただいている読者として、今号の作品では、3つの作品が私の心に引っかかってきました。それは、及川良子さんの「ある日、畑で」と西条健一氏の「春」、そして千田基嗣氏の「水」です。

 何故に引っ掛ったかというと、どの詩も、普段の生活の回りにある、ごくありふれた自然、風景に目を向けて、語っているような気がしたからです。

 例えば及川良子さんの「ある日、畑で」は、夕暮れ時の空の下での畑仕事をしている最中の、なにげない日常の会話を大切なものと捉え、次のような言葉で詩をしめくくります。



       (前3段落略)


   ああ

   世界中の 空の下
 
   種をまく さまざまな手が

   とぎれずに ありますように



   世界中の 空の下

   光 あふれる 畑で 種まく人の

   こんな 素朴なこころのやりとりが

   ずうっと 続いていきますように



   たとえ

   あした 何が 起きるとしても



               詩「ある日、畑で」


 ささやかな人と人の触れ合いや自然の出来事を、とても透明な心が洗われる言葉で詩に掬い取る及川さんならではの作品なのですが、省略した前半三段落の何気に日常の出来事が、引用させていただいた後半部分では、純粋なこころのやりとりに昇華し、あたかも祈りのような言葉となってしまうところが引っかかったのかもしれません。「なってしまう」と書いたのは、そこに必然があると感じるからなのです。

 そして、西条健一氏の「春」も、雪に埋もれた畠に目をやるとチュウリップの芽が出ていて、それを見つけて次のような言葉を紡ぎ出します。第二段落の後半から引用させていただきます。


     (最初の第一段落、第二段落6行略)


   忘れずに芽を出してくれて
   感謝です
   寒い冬を越して
   寒い冬に耐えて
   今年もやってきました

   私はすっかり忘れていました
   ごめんなさい
   私は明日も
   生きる力をもらいました


      (最後の二段落略)


 ここでも及川さんと同じように西条氏の言葉は、なにげない日常の風景、出来事から生きていることの喜びのような感動、生命(いのち)の大切さを感じ取り、感謝しています。まさに祈りのような言葉です。

 及川さんにしても西条氏にしても、詩の書き方は以前と比べて特に変わったわけではないような気がします。しかし、私の印象が、詩の感じる風景が、明らかに違っています。自分でも、どう考えて良いのか解らないと言ってもよいかも知れません。変わったのは、小熊、私自身なのかもしれません。

 そして、千田基嗣の「水」は文字通りタイトルの水という物質そのもののことを詠った作品なのですが、どこにでもある水は冒頭の詩行から「聖なる水」であり、「透明な天空の水」であり、「汚れを洗い流す水」であるという高い精神性を持たなければ書けない言葉で言い表されています。千田氏のこの作品もまた次のような終わり方をします。



      (前4段落略)

   上から落ちる水
   ここちよく冷たい水
   流してゆく水
   下界へ
   流れてゆく水
   ゆらめいた光
   水底の小石を見とおす
   透明な水

   はるかな高みの水



          詩「水」後半部分


 まるで洗礼です。このような言葉を書く詩人の心の中の境地は、何事も寄せ付かない純粋性、絶対的なもに魅せられた神の僕(しもべ)のようなものなのかなと思わずにはいられません。神の子は、祈り、そして大いなるものの存在を語らずにはいられないのではないかと、私は思うのです。

 その意味で、冒頭に引用した編集の千田氏の言葉である「語りたい思いの顕在化」は、まさに千田氏自身のことであると思わずにはいられません。それは、この号に収められている詩「船」を読めば明らかであると思います。


15:43:09 | tansin | | TrackBacks
Comments

千田基嗣 wrote:

これは、私のなかでの上澄みのようなものをすくい取ろうとしたのでしょうね。洗礼の水に仮託して。私の心の内部の上澄み、であると同時に、水という物質の両面性のうちの、上澄みの部分。
 泥やその他もろもろを内に溶かしこんだ濁流としての水ではなくて。
07/19/14 21:40:22

tansin wrote:

 ご本人からのコメント、恐縮です。そこまでは書きませんでしたが、千田さんの言葉を借りさせていただければ、水の両面のうちの上澄みでない面がするりと抜け落ちてしまう(本人の意思、考えとは違って、結果的にです)「危うさ」を強く感じています。それは、この取り上げた3つの詩から受ける印象です。千田さんの詩は、これまでそういう必ずどんなことでにでも宿っている両面性を矛盾ということで提示していたと思います。それが、今は消えていると感じています。良い、悪いという問題ではないです。抜け落ちたものをしっかりと支える視点が、同じくらい必要なのだと思います。詩が純化するというのは、ある意味、危うい状況だと思っています。
07/20/14 07:10:05

千田基嗣 wrote:

あ、実は、この詩は、その次に置いた「船」の前奏曲として組み合わせたものです。ひとつのセットとして読んでほしい、と。
07/31/14 20:05:37

tansin wrote:

 千田さん、失礼いたしました。要するに、誤読ですね。「いっそ詩人とは、詩を書く人ではなく、読む人でいいではないか」と亀之助は語っています。所詮、詩とは誤読の上に成り立つというものです。
08/06/14 05:30:03
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