Complete text -- "個人誌『風都市』第28号"

30 March

個人誌『風都市』第28号



 倉敷の瀬崎氏の発行する個人誌『風都市』第28号が届きました。私のような者に送っていただけるのはとても嬉しいのです。今号は、<水の時間>シリーズ(そう言って良いのでしょうか?)がありませんでした。<水の時間>シリーズの言葉達は、とても心地よくて、静かに流れてゆき、疑念を孕まない作品達でした。そういう、印象があります。



 しかし、今号には<水の時間>シリーズがありません。その代わり、瀬崎氏のシリーズものとは違う、独立した作品「揺れる」と「ミカサ屋」という二篇が収録されています。

 どちらの作品も、疑念が生じるものでした。
 例えば、「揺れる」では、突然、冒頭の四連で、湿った季節には、電車の中にびっしりと茸が生えていると書き出します。前提がないので、状況がつかめません。そして、その電車の中には、十人の客が乗っており、電車が大きく曲がると、思わずつり革をつかんだ手は九本しかなかっと言葉が行分けされながら、詩の言葉として続き、最後に次の八行で作品は終わります。

  揺れるものをつかもうとしなかった手は
  代わりに
  なにをつかまえれば
  安楽の地にたどり着けたのだろうか
  遠いところから来た人が
  背後を過ぎる
  暗い雨の匂いが
  した

                     詩「揺れる」最後の八行

 とても、わかりやすい状況を描写した作品なのだと思いますが、その中に疑念を生じさせる言葉があちらこちらにあります。

 例えば、揺れる電車の中で、自分の姿勢を保つためにつり革を掴まなかった一人の人が、どうしたのか。それを、気になるというのなら、代わりになにを掴まっていたのか、若しくは、よろめいたのか、という、直接的に前の言葉の状況に繋がるような言葉が生じることことが自然なのでしょうが・・・そうであれば心地よいのです。しかし、この作品では、そうではなく、「なにをつかまえれば / 安楽の地にたどり着けるのだろうか」という、飛躍した言葉が表れます。「安楽の地」「たどり着けるのだろうか」というとても日常的に使うものではない言葉が、表れます。

 茸がびっしり生えている電車は、非日常で、その中で立っている(つまり生きている)十人の中に、日常に何の疑念も感じずに無意識に生きている人が九人にて、残りの一人は「電車の揺れ」という日常の出来事には意識が向かない。そんなことはどうでもよい、それよりももっと大切なことがあると言いたそうな不在の手です。それは、自分が生きると言うことに疑念を抱いているとも感じ取れるのです。例えば、この現実に生きる価値を見いだせないでいる、そういう人間を描いたと思わずにはいられません。

 そして、最後の三行は作者の言葉なのだと思いました。

 この詩は、深読みすれば、この個人誌の最後に書かれている日録との関連から、まさに東日本大震災の被災地で瀬崎氏が感じたことを表現したものだと思いました。題名自体が、まさに「揺れ」です。

 二つ目の作品「ミカサ屋」も、疑念の言葉がある作品だと感じました。疑念とは、生きることへの不信なのかもしれません。

 

03:29:03 | tansin | | TrackBacks
Comments

小熊 wrote:

出だしで、瀬崎氏の敬称をつけ忘れました。後ほど、修正いたします。瀬崎氏には大変失礼しております。すみません。
03/30/15 10:18:19
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