Complete text -- "詩誌『a's』第32号"

03 May

詩誌『a's』第32号



 今、詩誌『霧笛』第2期第29号、Panoramic poem『a's』 第32号と季刊『ココア共和国』vol.15を持って、喫茶店で読んでいます。最近は、自分から積極的に詩に触れようとは思わないで過ごしていますが、送られてくる詩に関する書物は、その数は僅かばかりですが、丁寧に読もうと思っています。




 午前中(今は午後)、蔵王の麓にある小さな画廊を経営している御夫婦と会話を楽しみました。それで、奥様と詩の話になりました。奥様は、若い頃、詩人になりたくて、先生に付いて何度も習ったそうです。結局、どの先生ともうまくいかず、取っ替え引っ替え、結局、5人の方に教えをてもらったけれど、ついぞ詩人にはなれなかったと語っておられました。最後の5人目の先生が詩人の宋左近で、彼の指導はかなり厳しく、「この表現は違う」ときっぱりと言われるとのことでした。それで、奥様は詩に見切りをつけたとのことでした。最近は、もっぱら俳句をつくるのが楽しいとおっしゃっていました。詩は、書いていて、自由で楽しいけれど、つまるところ、自分だけの世界にしか過ぎない。しかし、俳句は違う、集中できる。そこが、俳句の魅力です、と語っておられました。

 楽しく書くことと集中して書くこととは違うのだろうなと思います。集中して書くこととは、夢中で書くこととも違うのでしょう。何を文字で表現したいのか、それを文章できちんと書ききることができるか否か。詩ではできないけれど、俳句ではできると彼女は語っているのかなと思いました。5・7・5という少ない文字数だからということではなく、その時々に感じたこと、思っていたこと、考えていたこと、考え続けていたことが、俳句の方が詩よりも的確に表現できるということです。
 
 それは、どうしてなのか。それ以上、彼女とは深い話にはなりませんでしたが、その理由は彼女が「現代詩人」になろうとしたからなのではないか、後で会話の余韻に浸りながら、私は考えました。

 現代詩人とは、少々、変な呼び方なのでしょうが、現代詩の詩人と言い換えてかまいません。要は一人の人間としての存在を光らせたかったのではないと思うのです。今、徹底して個人を光らせた詩とは、存在しているのか。そういう疑問が、少々、私の中に生じてきました。

 そんなことを考えながら、上記の3つの詩誌を読んでいたのです。

 そこで、気になったというか、感心した詩がありました。

 それは、『a's』第32号の新田一文氏の詩「ちゃんまげ」です。まず、全26行の作品の前半の10行と後半の7行を引用させていただきます。


   ぼくはちょんまげになりたい
   剣術を習ったこともないし、
   刀を持っているわけでもない
   兵法を習ったわけでもなく、
   論語をくわしく学んだこともない
   それどころか、
   嘘もついたし、卑怯な事もしてしまった
   きちんと手をついて詫びたことがあっただとうか?
   とても、ちょんまげには程遠いが
   それでもぼくはちょんまげになりたい
   
      (中略)
   
   立派な服装であろうと職人であろうと
   きちんとお辞儀をし
   質素でも日々の暮らしに楽しみをつくり
   体を動かすことを惜しまず
   他人と比べて喜ぶような卑しさからは一歩ひき
   誰にでもお早うございますと声をかけ
   それでいて日々学ぶことかを怠らないちょんまげになりたい


             詩「ちょんまげ」前半及び後半部分


 宮沢賢治の有名な詩を彷彿とさせる作品ですが、宮沢賢治は,大いなる存在に対する畏敬の念を持ち続け,人々を感動させる美しいた言葉を残しました。

 しかし、新田氏は,そのような存在に目もくれずに,日常の中で出会う出来事を題材に素直な気持ちを表出しています。なんてことのない,さりげない人間の「ちょんまげ」という仕草への感心を直球勝負で書いています。そして、ちょんまげとは何か、ということは一切書かれていません。自己主張ということでもなく、表現を模索した形跡もありません。徹頭徹尾、個人とは相反するたぐいの作品だと思います。強いて言えば、自分すら存在しない、その他大勢のただの一人として、自立せずに何物か取り憑くことで,自分を支えるという気持ちではないでしょうか。

 現代詩は、得てして表現の斬新さを求めます。それが、あたかも個性であるように、それがあたかも際立つひとりの人間の自己表現であるかのように、人をハッとさせる表現が、そのような言葉遣いが素晴らしいとよく言われます。

 その結果、何を言いたいのか分からないという、指摘を受けます。私が書いている自分自身のへたくそな作品もそうです。そいう難解さ、曖昧さに、安住してしまっている自分が居たりします。それは、それで誰も悪いと言う権利はないし、自分が良いと思えば何を書いても良いわけです。そこが、楽しさ、なのかもしれません。

 そして、今、私は、何故かこういう「ちょんまげ」のような詩に惹かれてしまうのです。それは、ただ単に分かりやすい、読みやすいということではありません。強いて言えば,なんでもない言葉が,意識をせずに読み手の中に入りこみ,知らず知らずに膨らんで,一つの世界が生まれる。そんな楽しみがあるからです。

 そして,何よりも重要なのが,自然の脅威という自分ではどうしようもできない事実に直面して,無力な存在としての人間という存在が最近,様々な表現に表れてきて,共同体とか大いなる存在とか,そういうものへ思考が傾斜している時勢の中で,なんかほっとするのですね。

 この詩も,深読みすれば「ちょんまげ」という権威をかなり痛切に揶揄しています。しかし,それは,読者の読みでなんにでも理解できるのです。正しいことなど,どこにも無いのだと思います。


04:57:32 | tansin | | TrackBacks
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