Complete text -- "個人誌『風都市』第25号"

11 February

個人誌『風都市』第25号



 今年、現代詩手帖で詩誌月評を担当している倉敷の詩人瀬崎祐氏から、個人誌『風都市』第25号が送られてきた。雑誌自体の作りは、パソコンを使って自宅で印刷したとても質素なものであるが、内容は奥深く、詩の持つ魅力に富んだとても期待させてくれる詩誌である。そこで、一作品、一作品を噛みしめながら、流し読みをせずに、余韻というか、その時に感じたものや思いが柔らかく跳ね返ってきて、心に響いてくるように静読している。まだ、最初の瀬崎氏の作品「水の時間・面」を読み続けている最中である。立ち止まりながら、自分を振り返りながら、自分という存在を確かめるよにに・・・・。でも、ここにきて書きたいことが湧いてきたので、中途であるが、書かせていただく。


 音楽は時間の芸術とよく言われる。そして、言葉も時間の中で、金魚の糞のように脳髄で発症している。それは、記憶だったり、匂いだったり、わだかまりだったり、水平線だったり、その人にとっての過去や未来が入り交じった言葉にできない言葉のようなものが渦を巻いていたりする。だから、見方によってはループするばかりで、病的なかもしれない。そして、瞬間、瞬間の刻(とき)を残して、一日が終わってゆく、また繰り返しながら・・・。

 瀬崎祐氏の詩「水の時間・面」は、水という無色透明な存在に憧れた人の独り言のような気がする。決して妄想ではない。そこには確かに時間がガラスのような水の表面に存在し、浮き出ている。どこか遠くで水の情景が浮かんでくる。そこは、手の届かない物達の場所だ。だから、自分と無関係であるということで不思議と気持ちが安心する。

   とおい浜では
   冷たい雨がふりはじめるころだろう


 「とおい」とは、「私」が存在しない空間、なのだと思う。そして「浜」とは渚であり、手の届かない場所への入り口としてイメージできる。そこで、なにものかが冷たい雨に濡れている。その自分とは関係ない場所で起きている水に関係する出来事が、とても、いとおしく感じられる。自分の身体の中の水分へと繋がっているその関係が、行間から滲み出てくる。そして、この染みのような境界の見えない位置関係が(ここでは「赤」と、色で表現されている)、そこに連なって、確実に存在しているという、安心感がある。

   行きかう人への表情をかくして
   さようならの挨拶をくりかえしていた

 ここで、なにものかと「私」の関係は一体となっている。ただ「さようなら」と繰り返し語るだけの存在は、それを聴いている「私」でもあり、それを言っている私でもある。なにものかと、重なり合っているとも、感じ取れる。ここで、確かな過去形、つまり流れてゆく時間が自分たちにも、同じように存在していたということが解る。

 で、次の第3連は、10行の言葉達が連なっている。赤というイメージで、「私」と「とおい浜」の関係が語られる。そこでは、薄い記憶が語られる。この薄さとは、水の持つ、透明感でもあり、流動性でもあり、味のない無色透明な抵抗感を持つ空気感であったりする。それをこの第3連で表現している。それぞれの出自が語られるように、来歴が短い9行の言葉の中に凝縮される。

 で、第4連は、

   水面に雨脚が輪をつらねる
   とおい浜によせる海で
   水が赤くなるまで泳いでいる

 「とおい浜」は、自分自身が存在する世界であることを、しっかりと表現している。強く存在するものよりも、消えそうなものに、より思いを惹かれるということがある。音楽も、人の発する言葉も、囁きだったりすると、より一層印象的に聞こえてくる。それは、自分という人間の、心が動いてしまう、どうしようもない「生」であり、どうしようとも離れられない宿命である。それを見事に感じさせてくれる作品です。

07:52:59 | tansin | | TrackBacks
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