Complete text -- "季刊『ココア共和国』vol.8"

12 February

季刊『ココア共和国』vol.8




 今回で著者である秋氏に送ってもらったのは、確か二度目だったかなと思う。最初の一度目は、なんとなく通り過ぎてしまった。自分でもよくわからない。で、今回だ。今日、すっきりとした気持ちで目を通したら、とても新鮮な雑誌に思えて仕方がなかった。この雑誌に「詩誌」と付けないことは、秋氏が敢えてそうしているのか、たまたまなのかわからないが、この雑誌は、まさに文字では見えない「詩」なるものがいっぱい詰まっている。


 冒頭、四方田犬彦氏の詩「ニザール」は、印象の強い原色のイメージが映像的に視覚を刺激する作品です。質感、この詩の場合は「土」という質感、語感ですが、それに同化しようとしてもできない違和を、見事にフラッシュバックしそうなイメージの言葉で表現しています。映像的な言葉達の繋がりは、日本語のどうしようもできない限界をも意味します。それを打ち破ろうと挑戦するかのように、慎重に、そして大胆に言葉を、時間や、あるいは死と生のイメージ、とを絡み合わせて表現しています。そこには、文字だけでは書き表せられない、イメージが残像のように響いています。それはまさに文字では見えない「詩」です。最初の一連を引用させていただきます。

   教えてくれ。
   何がわたしを引き留めているのか
   土くれ。溶け崩れた蝋燭の跡。女たちの祈り。
   棘。爪に食い込んだ砂。砂の赤。
   無花果の柔毛。土くれ。カメラのケース(皹の入った)。
   蒸散(ほんのわずかな蒸散)。
   濡れた砂。椰子の下に湧きあがる水。
   土くれ。何がわたしを引き留めているのか。
   土くれ。

        詩「ニザール」第一連

 須藤洋平氏の詩「化け物」は、平凡な日常の中の非日常を、言い方を変えれば、人間ならだれでも持っている醜い部分を見事にさらっと語っています。その、言葉のなめらかさは、見事にざらつきがありません。ぬるっとしています。だから、その感覚が奇妙に心の中に残ります。それもまた、文字では見えない「詩」です。この詩は、全体を取り上げないとわからない、強固な作りをしています。なので、引用することはできないものと思います。季刊『ココア共和国』は、私の知る限り、仙台の一番町の金港堂で売っています。読みたい方は、そちらでお求めください。色刷りで定価五百円です。

 いがらしみきお氏の詩「地震のこと」は、繰り返して出てくる「行く」、「言った」、「生きる」、「気持ち」といった「かきくけこ」という言葉の響きが印象に残る作品です。「かきくけこ」はとても甲高い響きがします。そう、地震は甲高い叫びのような仕業を地球に与えて去ってゆきました。これも、文字ではなく、その甲高い声の響きが交差する世界がとても危ういことを思い起こさす「詩」なのです。第四連の二行だけを引用させていただく。

   生きて行くのがすごくくやしい時がある
   くやしいのになぜボクは生きて行くんだろう

        詩「地震のこと」第四連

 クマガイコウキ氏の詩「仮称松岩と四千万円とマッチ売りの少女と私たち」は、言葉のコラージュです。所有物のない言葉たちが列びます。つまり、話者がいなにと成り立たない作品なのだと思います。逆に言えば、話者がいれば、何を語っても「詩」なのです。この作品も、一部だけを引用してもあまり意味がありません。というか、文字として読んではあまり意味は無いものだと思います。それと同じように、秋亜綺羅氏の小詩集「詩人の詩はつまらない」は、こういう言い方をさしてもらえれば、読み解く意味の無い文字たちの作品集です。これなら幾らでも書けるでしょう。逆に言えば、書かれる必要の無かった文字たちです。

 その他、書家の斉藤文春氏のことや劇団I.Q150の原初的な人間の欲求を満たすような行為など、本当にいっぱいの文字では見えない「詩」が詰まった雑誌です。読み応え満点の五百円です。
13:33:41 | tansin | | TrackBacks
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