Complete text -- "千田基嗣詩集『寓話集』"

02 September

千田基嗣詩集『寓話集』





 千田氏にとって言葉とは一体なんであろうか。もちろん、日本に生まれ育ち、日本語という言語を使って、小さな頃から、感情や意思を相手に伝えることを覚え、逆に相手の感情や意思を知り、また相手に感情や意思を伝え返す。そういった社会の一員としての日常の生活を送るための手段としての言語という意味での言葉ということでなく、千田氏の詩に書かれている〈言葉〉とはいったい千田氏にとってなんなんだろうか、とこの詩集を読んでいて疑問に思った。千田氏の詩の〈言葉〉は、そのまま、ありのままに読んで、受け入れることはできるのだが、そこから先へ続く言葉の意味の先にあるものを詮索させることを頑なに拒絶してくる。寓話とは、「教訓や処世術・風刺などを、動物や他の事柄に託して語る物語」(大辞林による)となるのだが、千田氏の〈言葉〉」は、その教訓や処世術・風刺にあたるものを伝えようとする素振りを見せない。だから、言葉は、一つイメージとして読む者に姿を現すのだが、決して心象風景や思想とはならず、具体的な事物となって現れてくる。千田氏にとっての詩の言葉は、狭い言い方をさせていただくと、意味を内含していない。こんなことを書くと、千田氏に反論されそうであるが、敢えて言い切らせてもらう。例えば、冒頭の「さかな ? 」の冒頭1連と最後の1連を引用させていただく。

   おれは
   何でもないさかなだ


        (中略)


   青く透明な海水と
   真っ白な砂と
   椰子の木と
   太陽と
   雲と
   しか見ない
   単なる一匹のさかなだ


             「さかな ? 」部分



 また、「綿わたワタ」の最後の部分では、


        (前略)


   素人どもの諸作品は生気の抜けた抜け殻で
   方法(メチエ)が物質(マチエール)にタチ
   ウチできない午前(マチネ)


   辛うじて子供は遊ぶ


             「綿わたワタ」最終部分


 ここには、世の中の事物を淡々と感情や思惑を抜きにして描いている〈言葉〉がある。そして、「おれは 何でもないさかなだ」と言い切る力強さがある。この断言することで、他を寄せつかない頑なさはいったいどこから来るのだろうか。こんなことを書くのは、自分がとても千田氏の詩に太刀打ちできないと悟ったからなのだが・・・。
 人間が言葉を意識しないで使っているうちはいいけれど、いったん自分が普段使っている言葉を人間作り出した、ただの記号であると意識した瞬間に、言葉は表層と意味が分離し、普段使う言葉とは違う〈言葉〉となる。千田氏は、その表層を言葉で表現している。そして意味は、千田氏の中で誰にも悟られることなく完結している。手前勝手な引用であるが、「大切なものは」を読むとそのことが少しはわかる気がする。最後の2連を引用させていただく。


   大切なものは容易には目に見えない
   心をしっかり働かせなくては見ることができない
   箱から取り出さなくては
   覆いを外さなくては
   一歩一歩近づくことなしには
   見ることができない


   大切なものは・・・


             「大切なものは」後半2連


 この詩集の中で自分が好きな詩は、「子どもの心で大人になろう」である。それは、表層と意味とが未分化な言葉であるから、全体の作品の中では、特異であり、何も考えないでそのまますっと心に入ってくる。たっぷりと油っぽい肉料理を食べた後のシャーベットといった趣があるからそう思うのだろう。だからと言って、そのほかの作品が嫌いなわけではないのですよ。どの作品も好きなんですよ。とてもかっこいいんです。




15:36:00 | tansin | | TrackBacks
Comments

千田基嗣 wrote:

お、なんかずいぶん褒められていますね。恐縮。
 「子どもの心で大人になろう」は、世の中「子どもの心を持ったまま大人になった人」というのは、一見、とても純粋で美しい、と褒められているようだが、まわりにいる普通の大人にとっては、とんでもない扱いづらかったり、めんどくさかったりするやつだぜ、というアイロニーを書くつもりだったのですね。
 ところが、この詩を読んだ人の感想は、そうだよね、「子どもの心を持ったまま大人になった人」というのは美しいね、みたいな反応だったのでびっくりした、というところ。
 「一見、純粋で美しい」という部分をより多く書いてしまった、ということなんでしょうかね?
 実際、「子どもの心を持ったまま大人になる」ということは、純粋に美しいことなのでしょう。
 アイロニーを意図したところ、その表現が意図を覆したというアイロニーとなった、二重のアイロニーの詩、ということになるのでしょうか。
09/03/11 21:53:51

koguma wrote:

 千田さん、ご本人からのコメント、超嬉しいです。しかし、「子どもの心で大人になろう」も表層だったとは・・・。しっかりやられてしまいましたね。だから、千田さんの詩は意味が読めないんです。感じはするんですよ、良い香りの。ですがそれが一体何なのかわからないのですね。二重のアイロニーになったことは、千田さんにとって、してやったり、なんでしょうか?是非、聞きたいな。
09/04/11 21:11:11

千田基嗣 wrote:

 二重のアイロニーというのは、もちろん、そこまで意図したわけではありません。
 でも、基本的に美しいこと、気持のいいこと、面白いこと、上品なことしか書こうと思わないということはありますね。汚いこと、下品なこと、気持のよくないことは書きたくない。
 人間には悪意がない、というのが私の基本的な思想です。一見悪意と思えるものも、当人にとっては正当なことであるのだろうと。
 この悪意のなさが、私の詩の薄さの理由なのかもしれません。
 ただ常に二重の意味みたいなものは意識してますが。
 あ、それで、美しく心地よい詩だと読んでもらえたのだとすれば、とても有難いことですね。
 
09/04/11 21:40:09

koguma wrote:

 千田さんにとって詩は具象彫刻のようなものなんでしょうかね。泥臭い抽象化されたものは違うなって感じなんでしょうか。でも、美しく昇華された抽象彫刻もありかな。また、他人についても、現に存在しているのだから、否定のしようもないってところですかね。「常に二重の意味みたいなものは意識してます」とは、凄いことです。
09/06/11 06:54:07

千田 wrote:

具象彫刻、ああ、確かにそうかも。でも、泥臭い抽象化されたもの、それも面白いかも。なんか書いてみようかな。他人は、いつも絶対で否定のしようがありませんね。私は、いつも自分を否定しています。いや、人間だから、自分を絶対に肯定しているんですが、否定の底に肯定があるみたいな。たぶん、外から見れば、自分を肯定的にとらえていると見えるでしょうが…
09/06/11 21:31:39

小熊 wrote:

自分も美しい詩を書きたいといつも思っています。泥臭い詩は、その泥臭さが美しいと感じたなら書きますが・・・、でも自分は感覚的に書いているので、意味づけはあまりしていません。書きたい物自体が、ぼんやりとして掴めないまま書いています。書いているうちになにかが見えてきそうな感じです。だから、何を言いたいのかわからないと、前の詩集を出したときには言われました。まっ、しょうが無いです。千田さんの詩は、感じるがままに読んでいる方がいいですね。あまり、これは何を言っているのだろうかと考えると、不毛なことになりますから。感じるままにです。「外から見れば肯定にとらえていると見えるでしょう」ということは肯定に見られたいって言うことではないのかなと思ったりもします。否定の次の否定は肯定ってな感じです。
09/08/11 21:56:28
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