Complete text -- "鹿島茂『山麓の村』"

06 August

鹿島茂『山麓の村』





 自分の仕事の関係で鹿島茂氏と出会う機会があり、詩人の名前だけは以前から知っていたので、会合の宴席の折に自分の詩集を鹿島氏に差し上げた。それから1週間ぐらいして、職場の人間を通じて鹿島氏の詩集『山麓の村』をいただいた。それとともに鹿島氏が活動している季刊『農民文学』もいただいた。鹿島氏はいわゆる農民文学を書き続けている。自分にとって農民文学との関わりはさほどない。振り返れば、学生の頃に卒論を書くために岩手の県北の山村を歩き回っていた時期に、盛岡の書店で買った『ブナ』(本当は木偏に無と書く漢字なのですが、どうもこのブログはブナという漢字を表示できないらしいです。)という詩誌の中の作品に描かれていた農村の風景や秋田の詩人小坂太郎の『小坂太郎詩集』に描かれている農民の叫びに、ひどく共感した思い出がある位だ。


 詩誌『ブナ』では、安代町に住んでいた香川弘夫の詩に強く惹かれるものがあった。その作品では、奥深い山の村で、日々の糧を得るのにも困窮しながら細々と息を潜めて暮らす農民の救われない魂の怨念が、いたこの語り口を借りてめんめんと語られる。その得体の知れぬ語り言葉の力に引き寄せられるものがあった。そして、自分が通った一戸の奥深くに点在する村々の風景がまさにそれに通じるものがあった。だから、他人事ではなかった。


 鹿島氏の詩は、香川弘夫の詩の持つ農村の闇の部分に光を当て、社会の矛盾として写し取った言葉で語りかける。経済の繁栄の中で疲弊してゆく農村の風景や農民の暮らしを、社会の問題としてリフレインのように繰り返し、批判する。時には怒りを露わにして感情を吐露し、そうかと思えば、過去の美しい記憶として農村の風景を言い表す。その言葉は、リズミカルでもあり、温かい大地のぬくもりに守られた優しさがある。縄文の昔から続く、人間が自然と共存する営みを守り続けてきた日本人の世界観を根底に強く持つ、ダイナミックな風景を秘めている。私の好きな詩は、詩集に収められている冒頭の3作「村」、「野にたいまつを炊け」、「位牌」だ。


 「村」は、とても深い悲しみを歌っているが、とても美しいリフレインが響く、最終の3連を紹介する。

          (前略)

   村が沈んでゆく
   村が沈んでゆく
   沈んでゆくむらのむこうの港では
   テレビが積み出され
   自動車が積み出され
   コンピューターが積み出され
   積み出した分だけの
   アメリカの小麦と
   中国の野菜が
   オーストラリアの牛肉が
   カナダの木材と
   ウランや、原油や、梅干しまで
   降ろされて
   山となって
   その影が村々を暗くする

   村が沈んでゆく
   村が沈んでゆく
   
   小さな日本の
   小さな百姓の
   小さな夢を沈めて
   日本の村々が沈んでゆく

             「村」後編
 
 詩「野にたいまつを焚け」は、現代社会の矛盾を強烈な赤い色で染め尽くし、もの皆すべてを批判する。最初の3連と中段の5連を紹介する。

   野にたいまつを焚け
   いまこそ 野にたいまつを焚け

   縄文の野よりも暗い
   二十世紀の野に
   赤々とたいまつを焚け

   天を焦がすまで
   野にたいまつを焚け
   いまこそ 野にたいまつを焚け

             (中略)

   鉄に追われ
   米に追われ
   火をたきながら
   縄文の人たちは死んでいった
   その日から続く収奪と
   三千年の恨みを照らすために
   赤赤と野にたいまつを焚け

   高い ビルディングの街が見える野に
   たいまつを 焚け

   高速道路を 宅配のトラックが疾走する野に
   たいまつを 焚け

   原子力発電所がある野に
   たいまつを 焚け

   アメリカ軍基地のある野に
   たいまつを 焚け

             (後略)


             「野にたいまつを焚け」部分
17:44:14 | tansin | | TrackBacks
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