Complete text -- "詩誌『Eumenides III』第47号"

14 April

詩誌『Eumenides III』第47号



 詩人金子忠政氏から事前の予告どおりに、彼の瀧口修造に関する評論を載せた詩誌『エウメニデス III』第47号が届きました。贈呈に感謝申し上げます。いただいておきながら、こんなことをかのは不遜なのですが、多分、私は金子氏の評論だけでは、金子氏が何故、今、瀧口修造にこだわるのか、解らなかったと思います。正直、人というものは、そういうもの、つまり過去に犯した自分の過ち、あるいは「はじらい」に対しての身の処し方、あるいは向かい合い方は、こうしなければならないというものはなく、単純に言えば、人それぞれの処し方があって良いことだと考えていました。だから、私が、瀧口修造のことを、今でも、尊敬する、いや私淑する詩人だと言ってはばからないことに、なんら金子氏の評論は影響を与えないと考えていました。そのこと(戦争翼賛を行ったことに対し沈黙し、さらにそのことに正面から向き合わなかったこと)をもってしても、私の瀧口修造への想いは変わらないと考えていました。




 しかし、この特集「シュールリアリズム」という四つのシュールリアリズムに関する評論を載せた詩誌『エウメニデス III』 第47号を読んで、金子氏の言わんとしていること、そしてその評論の目指すことが、おぼろげながら解った気がしました。それは、金子氏が、どうして瀧口修造に拘るのか、その理由がわかったと言っても良いのではないかと思います。

 具体的には、詩誌に収められている四つの評論のうちのもう一つ、京谷裕彰氏の『シュールレアリズムの二十一世紀(一)』という連載の評論と合わせて読むと、今の現代詩の状況に対する、ある明確な問題提起が浮かび上がってくるということです。

 京谷氏の、難解な言葉や外来語が頻出する評論は、私の誤解と無知を承知で書かせていただければ、日本におけるシュールリアリズム運動の受容を再度、今、振り返り、俯瞰した目で見下ろして、如何にその受容がヨーロッパで起きたシュールリアリズム運動の本質が抜け落ちたものであるかを、さらりと指摘したものであると、私は理解しました。

 その上で、再度、今、抜け落ちた本質がどのようなものであったのかを確認し、本来の意味でのシュールリアリズム運動が持っている「政治性」と切り離すことができない本質から、現代社会を問い直そうとしているものでありました。そして、今の二十一世紀に問い直すことに、大きな意義があると京谷氏は語っています。

 例えば次の文章

   「デジタル / アナログとを問わず、あらやるメディアが無意識や下意
    識に直接すり込むサブリミナル・インパクトによって害された認知
    や情動の回路を組み替える。始まりの場所へとつねに立たせてくれ
    るからである。」

 というふうに。

 ここで、一つ私見を書かせていただければ、それは、シュールリアリズム以前のヨーロッパの芸術運動であるいわゆる未来派宣言の日本における受容が、大部分は美術界の小さな運動に終始し、結果、その形式のみであったという前例をどうしても考えてしまいます。つまり、現代社会において、幾ら、もたらしてくれる海外の情報の量とスピードが進化したところで、所詮、私たちは当事者ではあり得ないということです。その結果、シュールリアリズムの本質を明らかとして、そこから、「次回以降、シュルリアリズムが開示するいくつかの問題系へと話題を拡げてゆくことをしたい。」としても、どこまでいっても偏見に満ちたものであり、筆者自身の血肉となり、実践を伴わない限り、同じことを繰り返すということでしかないと思います。

 その良い例が、京谷氏がこの詩誌で発表している作品「凍りつく魚とおぼしき色刷り銅販」が如実に表しているのではないかと、思わずにはいられませんでした。それは、かなり " よそよそしい " のです(季刊『ココア共和国』vol.17の感想を参照していただきたい。)。

 私が前記した「同じことを繰り返す」ということで言わせていただければ、それは、金子忠政氏の瀧口修造に対する態度とどこかで通底していると感じます。それは、あまりにも私が独りよがりで、飛躍しすぎなのかも知れませんが。

 では、金子氏は、どうして瀧口修造の戦後の態度にこだわるのか。それは、瀧口修造という個人に対してではないということは明白だと思います。では、なにに対してか。それは、瀧口修造に私淑する私のような「詩人」と称する人間があまりにも多い今の状況、つまりいわゆる詩壇と言われる権力・状況に対して、異議を唱えていると解釈します。

 その異議とは、京谷氏が語るところのシュルリアリズムの本質、「<美学>と<政治>の不可分性であり、<理性>と<実存>との相克であり、批評における<判断能力>の問題であり、<交わり>と<共>にあることのエチカであり、<愛>をめぐる現象学と形而上学であり、現代美術と現代思想が主題化する無数の問題系である。」と理解しました。

 金子氏が瀧口修造を例に出して異を唱えていることは、今、書かれている多くの詩が政治に対して、関わろうとせず、いやむしろ避けている、沈黙しているということであり、それは京谷氏が語るところの<美学>と<政治>の不可分性が、現在の詩の状況では、あまりにも欠落しているのではなかろうかと、思った次第です。

 では、私のような瀧口修造に私淑している「なりそこないの詩人」気取りの人間は、この金子氏の問題敵に対してどうしたらよいのか。

 それは、自分自身の態度として考えてみれば、「権力の発生に対して敏感になることでいる。」ということしかないような気がしています。社会と関わって生きるとは、常に、権力と関わることになるのですが、その中で、できる限り(本当は徹底的にと言いたいところですが、それは無理ですから)、権力を持つ側に立たないということです。机上の空論として敢えて書けば、「徹底的」とは、社会の中で他人との関係を持ちながら生きている限り、瞬間瞬間、常に、自分自身が権力の側に立っているという自覚を持ち、それを否定する態度を貫き通すということだと思います。

 誤解を恐れずに書けば、この「徹底的な態度」を取らなかった瀧口修造は、祭り上げられべき詩人ではないということだと思います。

00:48:50 | tansin | | TrackBacks
Comments

金子忠政 wrote:

私の意図を察していただき、ありがとうございます。私も瀧口に長年私淑してきた一人です。つまり、大好きだ、ということです。小熊さんと出逢った頃からいただき続けている「読書会の招待状」から、瀧口の「リバティ・パスポート」を連想し、嬉しくなった記憶があります。
 瀧口個人を契機にして、このクニの詩界が抱え続けている「結果としての」日和見主義的側面を浮き彫りにしたかった。彼をあくまで一つの象徴としてとりあげなければならないと、大それた事を考えました。
 ですから、自己批判のつもりでもあります。その意味において京谷さんの論考はとてもおもしろく読みました。
04/20/15 05:57:13

tansin wrote:

金子さん、コメントありがとうございます。私こそ、よいものを読ませていただきました。ありがとうございます。私こそ、自己矛盾(権限を持つ側にいる)を抱えているわけです。できることは、権力を持つ側になるてけ近づかない(私生活では)、立たない(私生活では)、立ってもそれを自覚していること、しかありません。結果的に、それではなんら「自分に正直」な態度とはならないのですが、致し方ないです。その点で、最近の長尾さんの戦争翼賛の詩に対する文章は面白かったです。
04/23/15 01:47:56
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