Complete text -- "個人誌『風都市』第27号"
09 August
個人誌『風都市』第27号
人は幸せを感じると、真っ直ぐ正面に視線が通るということがあるのかもしれない。これは、私自身の個人的な感覚かもしれないのだが。しかし、例えで言えば、会話するとき、しっかりと相手の目を見て話すことができることは、自分が幸せであるからではないかと思ったりする。いや、悲しいときや、絶望に拉がれて怒りを感じているときなどにも、相手の目を真っ直ぐに見据えて、視線をぶつけるということもあると反論されそうであるが、それも全くもって否定することではない。しかし、私は、幸せなときは、視線の先にあるものをしっかりとした姿勢で、真正面に見据えることができたりする。その時、私は、孤独ではないのだろうと思う。つまりは、誰か他人を意識しているということになる。人の幸せは一人では成立しずらい。
訳のわからないことを書いているが、瀬崎祐氏の個人誌『風都市』第二七号に収められている瀬崎氏の作品「幸せピンポン」を読んでいて、そんな感想を持った。
ここからまた屁理屈が続く。ピンポンは、卓球というスポーツ競技ではない。卓球は、相手に球を打ち返されては困る競技のはずである。相手側の台に球が入って、相手が取れないか、若しくは取っても自分の側の台に打ち返すことができずに、球が正常に行き来できないことを争う競技ではないかと思う。
それに対してピンポンは、自分が打った球を相手が打ち返し、自分の側の台に戻ってくる。そして、また自分が打ち返す。そしてまた相手が打ち返す。その球の遣り取りが続くことが楽しみとなるものではないか。自分が打った球を相手にきちんと打ち返えせた幸せ、今度はその球を、相手がきちんと自分の台に打ち返してくれた幸せ。この遣り取りが人との間で成立すること。それがこの詩では視線という、線を意識させるという手法で表現されている。作品の第二段落を引用させていただく。
ナカモト君の打った球はときどき逸れる
そしてわたしの研究成果のなかをよこぎったりもする
わたしは もうピンポンを止めてくれとナカモト君に言った
すると ナカモト君は意外なことを言われたという顔つきになった
だってピンポンの音を聞くのは楽しいことだよ
ピンポンの白い球が弾むのを見るのは楽しいことだよ
それに
ピンポンをする人が近くにいるのは幸せなことだよ
(詩「幸せピンポン」第二段落)
逸れる線、よこぎる線、弾む線。私はとてもストレートに頭の中に直線を描きながら、心地よくこの詩を読み始めた。この心地よさは、多分、線が交差しないからではないかと思った。
しかし、一人黙々と研究成果をまとめている「わたし」は、線が戻ってくることに煩わしさを感じる。
でも、もう充分なのだ
この部屋でピンポンをするのは止めてくれ
軽く弾む白い玉がネットを越えて行き来するのを
向こうへ行ってしまったと思ったわたしの幸せが
またも打ち返されてもどってくるのを
固唾をのんで見ていることにはもう疲れたのだ
(詩「幸せピンポン」第四段落七行まで)
線が交差してきて、やがてどれが誰の線か解らなくなってくる。読んでいる私も混乱し始める。
社会的な存在である人間も、時には自分だけの満足できる世界に浸りたいと思うが心情というものがある。情報の量が増え、交通も頻繁になり、関わる人間が増え、様々な思考や趣味や思想を持った人間と関わらなければならない現代において、神経戦をから逃れる時間を持つことは、とても幸せなことだと思う。
しかし、それができない。そのジレンマを抱えながら、結局「わたし」は、いつの間にかピンポンの白い玉そのものになって、打ち返さる。そんな情景を映し出して、この詩は終わっている。ここで、私が作者の視線に感じていた線は、見事に消えてしまう。
線とは、神経なのか。「わたし」が白い玉になるということは他人との関係を気にしなくなったとも言える。その丸くなった白い玉が人の間を動く様を「わたし」が観ているという情景は、安易な読みをすれば、無心で魂を通わせるということなのかもしれないが、瀬崎氏はそれが本当に人間の幸せなのだろうかと疑問を提示してこの詩を終えている。
白い玉になったわたしはナカモト君に打ち返されて
軽い音をたてて台のうえで弾み
それから スギウラさんに打ち返されている
白い玉になったわたしは
いろいろな人のあいだを行ったり来たりしてしている
これがわたしの幸せというものだろうか
(詩「幸せピンポン」最終六行)
12:38:39 |
tansin |
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