Complete text -- "詩誌『霧笛』第2期第27号"

29 September

詩誌『霧笛』第2期第27号




 私は、大分前に詩誌『霧笛』第2期第26号を送っていただき、さらっと読んだとき、何か違和感を感じました。それは、震災以降に発行されてきたこれまでの『霧笛』と、どこか作品の受ける印象が違うなというものでした。それが、何なのか考えあぐねていたら、もう次号の詩誌『霧笛』第2期第27号が届いてしまいました。私は、何も義務的に詩誌『霧笛』の感想をここに書いているわけではなく、詩誌『霧笛』を読むのがとても楽しいから、その感じたことをそのままに書いているだけなのですが、継続して読むほどに、どの作者にも親近感を持ち初め、どの作品もしみじみと心に和んでくるのは事実なのです。


 それで、今、第2期第27号のことを書こうと思いながら、同時に第2期第26号も読んでいます。そこで、感じたことは、第2期第26号を読んだときに自分が感じた違和感とは、詩誌『霧笛』の作品群の中に、「日常に戻ってきている」というものだったのかな、というものです。ある種の興奮状態から覚めて、普段のありふれた、なんの起伏もない生活に戻ったとときに、感じるであろう「どうやって過ごそうぁな」という戸惑いのようなものを、多くの作品達に感じました。

 例えば、及川良子氏の詩「雲雀」(第2期第26号)の次のような言葉です。

   こんがりあつい日射しの中
   眼に入るのは 青い空と山と雲雀の点
   ときおり 風もそよいで
   友とすわって
   のどかです のどかです

   すなおによろこべない のどかです
   こんなのどかを
   永遠に失った人たちがいる


         詩「雲雀」最終の2連

 最終連の冒頭の「すなおによろこべない のどか」とは、生きることへの肯定ではなく、戸惑いです。私の読み方は、かなり勝手にこしらえたフィルターがかかっていると思うのですが、それでも、彼女のこれまでの詩の中には見られない否定形の表現です。敢えて言わせていただければ、これは、自分の日常が戻ってきたからこそ現れる意識だと思います。

 それで、彼女の第2期第27号の作品「半纏木の花ひらく頃」を読むと。どうしても気になる言葉に出会います。それは、彼女の戸惑いそのものと思ってしまう言葉です。私は、かなりの深読みをしています。ですから、作者の意図とはかなり外れた、おせっかい的なことを書いています。そこはご容赦いただきたいと思います。その言葉とは、「毛虫」という言葉です。詩語としては「虫」あるいは虫の固有名詞で良いはずです。それを、敢えて「毛虫」と書く、そのことで、この美しい語調と残像を持つ作品は、見事に調和を崩しています。私は、ここにズレを感じます。その「ズレ」とは決して否定的なことではないと思っています。むしろ、見事なズレだと思います。簡単に言うと、人間という存在そのものです。及川氏は、ただ何気なく「毛虫」と書いたと思いますが、私にはその言葉にかなり違和感を感じました。彼女が昔書いた詩に道を横切る牛乳配達人の詩があります。この詩は、それとだぶってきます。朝早くから、人知れずにミルクを家々に配達する労働者の風景です。それと、愛おしさでは毛虫も負けないのだと思いますが、彼女にとって、今は「毛虫」でなければならない、何かがあるのだと思います。

 そして、千田氏は2期27号には、表紙を飾っている常山俊明氏の第18共徳丸のスケッチの絵を題材に「置く」という作品を書いています。前提に、第18共徳丸が解体されるということが決まった状況があったから書かれた作品と推察します。千田氏は、第18共徳丸の震災遺構として残すべきかどうかの是非をここで題材にしているわけではなく、あくまで常山氏のスケッチを題材にしているのだなと言う理解がこの詩には必要なのかなと思います。その上でこの詩の最終2連には、こう書かれています。


   聖なる
   思い出すべき場所に
   そこはあえて
   創って置く
   抵抗に
   あえて
   抗うように
   残して置く
   聖別して置く


   なんどでもなんどでも
   記憶を呼び覚ます場所にして置く




             詩「置く」最終の2連


 ここで、「置く」という表現が数多く表出してきます。この、「置く」という行為をどう受け止めるのかということがあります。どこかに震災遺構を作るという意味での「置く」ということがあるかと思いますが、千田氏が繰り返す「置く」は、そういうことではないと思います。それは、それぞれ、一人ひとりの心の中に、「置く」という行為が大事なんだよということだと思います。仏教徒やキリスト人が、神聖な気持ちで、念仏や十字を切るように、「置く」という行為が尊いのだと、語っています。こういう風に、解説風に言葉にしてしまうと、詩は死んでしまうのですが、敢えて勝手な解説を行いました。そして、千田氏も、彼の詩に変化が感じられます。彼は、無神論者だと思います。さらに、これまでは、どちらかと言えば、当事者ではなく、斜めに見る、「まれびと」的な位置に自分を置いてきました。しかし、ここにきて微妙にそれが変わってきているような気がします。例を引用します。第2期第26号の詩「なかったかのように」の最後の3連です。


   ひとが死んで
   生き延びるひとがいる
   いくらたくさんのひとが死んでも
   生き延びたひとからはまたひとが生まれて
   死んだひとの空隙を埋める
   また同じように
   ひとが生きる


   どんな大惨事であって
   どんな悲劇があっても
   生き延びたひとから
   またひとは生まれる


   そして
   ダンスを踊る




             詩「なかったかのように」最後の3連


 それが、第2期第27号の詩「置く」ではこういう表現を使っています。


   日常生活ではね
   忘れてしまっていいんだよ
   笑って暮らしていいんだよ
   幸せになっていいんだよ
   おいしくものを食べて
   酒も飲んで
   盆踊りして


             詩「置く」第12連




 この二つの詩で表現しようとするものが、両者で明らかに違うので、比較のしようがないのですが、ある種達観した詩を書いてきた千田氏であっても、共感して寄り添わなければならない意識が強くなってきていると思います。私がそれを一番感じたのは、「ダンス」という千田氏を象徴するスタイルを持つ言葉が、「盆踊り」という言葉で換地されているところです。これは、私自身の感想を正当化する、明かなこじつけなのですが、自分的にはそれだけでは済まないものを感じるということなのです。

 そして、ここに「日常生活」という言葉が出てきます。




 



06:07:12 | tansin | | TrackBacks
Comments
コメントがありません
Add Comments
:

:

トラックバック