Complete text -- "詩誌『霧笛』第2期第25号"

24 February

詩誌『霧笛』第2期第25号




 宮城の詩誌の中で、ほぼ定期的に発行し続けている詩誌は、気仙沼から出ている詩誌『霧笛』と秋亜綺羅氏の季刊『ココア共和国』ぐらいではなかろうか。他に、佐藤洋子氏の『a's』もコンスタントに出てはいる。それで、『a's』29号と『霧笛』第2期第25号が立て続けに贈られてきた。自分は、贈られてきた詩誌は、自宅ではなかなかじっくりと読めない。どこか違う場所で読まないと、アンテナが立たない。それはどうしてかよくわからないが、詩を読む行為は、生活の一切を切り捨てて消さなければならないという感じなのかもしれない。なので、いつも鞄に贈られてきた詩誌を入れて持ち歩き、時間があるときに喫茶店や電車の中で読む。今日も、遠刈田の雪の降りしきる中、人気のない喫茶店で、詩誌『霧笛』第2期第2号を読んでいる。


 自分の心に響いてきたのは、及川良子氏の「アオキと蜘蛛と青空の向こう」と小野寺正典氏の「冷気の中の二胡」だった。さらっと全体に眼を通しただけなのだが、気持ちを落ち着かせ言葉を心の奥底に沈ませるように読んでゆくと、どこかで自分の気持ちが動き始めたと思える瞬間が感じられる時がある。そういう時は、大体に、良い詩に巡り会ったということになる。

 で、詩「アオキと蜘蛛と青空の向こう」は、いつもの及川氏の透き通った、生きることのすばらしさを、生きていることの美しさを表現しているものとは、ちょっと違うなと感じた。それは例えば、第5連の次の言葉を読んでいただきたい。

   誰かきょうも
   薄暗い場所から
   光あふれる場所をのぞいている
   声のない声 喉につまらせながら

             詩「アオキと蜘蛛と青空の向こう」第5連

 「薄暗い場所」という言葉、それと「喉をつまらせ」という悶えたような言葉が使われている。誰でも、声にならない声があるし、言おうと思っても、喉に詰まらせてしまう言葉はある。それは、言えないのか、言ってはいけないことなのか。それはわからない。しかし、及川氏の中で、躊躇するものがそこにはあるだろうと思った。

 前の行に遡って、第4連では彼女が言葉にはできないなにものかを感じ取っている節が読み取れる。

   そうね
   陽が沈めばこの境目は消える
   青空の向こうのほんとうが展がる

             詩「アオキと蜘蛛と青空の向こう」第4連

 これまでの及川氏なら、「ほんとう」を美しいと感じた言葉で表現すると思う。しかし、この詩で彼女はそれを行わない。私は、人間は疑問形の中で生き続けるものだと思っている。何かを会得したならば、それは「ほんとう」ではないと思っている。

 最後の3連を紹介したい。

   あなたよ
    死ぬるな
     死ぬるな
   そこがいま
   交わす言葉のかけらも無い場所であっても

   あなたよ
    生きぬけ
     ぶざまに
   その薄暗がりを
   すがるものの何ひとつ無い恐怖を
   生きぬけ

   杉木立の中のアオキと蜘蛛が
   実は
   青空のむこうのほんとうと
   繋がってはいない  と
   誰が言えるだろうか

             詩「アオキと蜘蛛と青空の向こう」最終の3連

 及川氏は、この詩の前半部分で、蜘蛛の巣が杉木立の中、僅かな光を浴びて輝いていることを「宝石のよう」と言い、枯れた杉木立からアオキが木漏れ陽を浴びている育つ様子を「背をのばす」というふうに詩的言語で表現している。これは、いつもの及川氏の言葉であると思う。しかし、この詩では、それらの及川氏のこれまでの透き通った感覚を、敢えて言わせてもらえれば、美しいいと感じたことのみならず、恐怖の中にさえ、「ほんとう」を感じ取ろう、感じ取っている感性の広がりを感じる。それを疑問形で読者に投げかけてくる強さをとても強烈に感じた。


 小野寺正典氏の詩「冷気の中の二胡」は、とてもリズムの良い作品です。その中に、小野寺氏の眼差しを感じる。小野寺氏と同じように読んでいる自分も目の前に横たわっている「瞬きもせず / 半眼を開いた / 虚ろな眼差しで / 君は何処を / みつめているのか」(第6連)という「君」を見ているような錯覚に陥る。この君とは誰だろうかと、自分は自問自答をしてみた。この「君」とは、作者自分自身であると自分は読んだ。その、冷たい眠りの中に、落ちてゆく自分、堕ちていったならば、どんなに楽だろうかと思うのだが、そこで意識がぱっと目覚める。これは、極論すれば、社会的な存在としての人間の悲しさだと思う。それを鮮やかに詩全体で表現している。第2連と最後の2連を紹介させていただく。

   身体が
   ばらんばらになって行く
   心地よさに比例して
   氷山のようになった
   脳味噌が漂い始めた

             詩「冷気の中の二胡」第2連

             (途中省略)

   僕も君のように
   氷姫に
   心も身体も
   売りとばしたくなった

   でも
   二胡の優しい
   メロディーが
   僕を
   思い止まらせてくれた。

             詩「冷気の中の二胡」の最終の2連

 千田基嗣氏の詩「斜視 なまめかしく」は、詩誌回生ふ号に掲載された作品である。詩誌回生の中のコラム「木槿の眼」で、木槿さんが感想を書いたことを受けて、再度作品に手を入れてたものである。大幅に変化している。が、基調となる男と女の関係は、さほど変わってはいないように思う。自分は、詩誌『回生』ふ号に載った初出の作品に惹かれていたので、それでもう十分なのだが。しかし、今回の手を入れた作品はそのときに自分が感じた男女の関係をコラージュ的に表現する千田氏独特の感覚、それを木槿さんは「幾何学的」と表現しているが、それににさらに奥行きを与えている。私は、初出の作品の中の「吸引する裂け目」という言葉が好きなのであるが、それは今回は使われていない。その代わり、次のような表現に改められている。

   幅のない斜線
   空間の歪みのような
   まなざし
   わたしのまなざし

   わたしの・・・

   あなたの
   濡れた眼が
   わたしを見つめかえす

   見つめることを
   あなたの
   濡れた眼が
   見つめかえす

             詩「斜線 なまめめかしく」第6連から第10連

 さて、どちらがいいだろうか。




11:17:46 | tansin | | TrackBacks
Comments

千田基嗣 wrote:

小熊さん、有難うございます。メールも有難うございました。良子さんと正典さんにも伝えておきます。
良子さんは、透き通った美しさの底に、彼女が通ってきた苦しみというのがいつもあるのだと思いますね。はっきりとはわからないのですが、ご主人を失ったことに関わりがあるようです。
02/27/13 19:10:23

tansin wrote:

人の死はただ美しいものじゃないと思うのですが、詩はそれを透過した美しさばかりを詠っていては、間違い(いや、それもいいのですが、そればかりが詩になるわけではなく)であり、やはり生の迫力を言葉で表現する力強さもあってもいいかと思います。及川氏の最後の言葉の投げかけは、それ自体、及川氏自分への投げかけだと思いますが、それは自分の詩への投げかけかもしれません。
02/28/13 04:47:53
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