Complete text -- "仙台演劇研究会通信『ACT』Vol.361(2012年8月号)"

18 August

仙台演劇研究会通信『ACT』Vol.361(2012年8月号)




 仙台演劇研究会通信『ACT』は、もう今号(2012年8が月号)で361号である。毎月出しているとして30年続いていることになる。これは恐ろしい。私が現在、行っている言葉の塊の発露の行為ですら1万日を仮定しているので、これで約25年である。とうてい、私は自分のこれからの人生をすべて費やしても、そのけじめとする行為は、『ACT』に及ばないのである。
 で、今月号である。巻頭の松川穗波氏の詩「ステンドグラス異文」が、とても爽やかだった。えてして、この『ACT』は政治的な主張を、もろ出しにする。それは、何も良い悪いというものではく、特段に意義のあることでもなく、人として自然なことであるが、創造的行為を基とする通信誌の中に、意図を露わにした棘のある言葉が混ぜ合わさると、主張しようとする言葉の姿勢は変わらないにしても、方や人間の創造的行為を呼び覚まそうとする表現と、方や人間の意思を直接に引っ張り出そうとする表現のどちらかが霞んでしまい、結局はざらついた舌触りしか残らないことが多いと感じている。
 しかし、この「ステンドグラスの異文」は、霞まないで自立している。「異聞」でなくて「異文」である。これは、つまり、ここに書かれているものは伝聞ではなく、作者自身の体験、いや作者から発せられた作者の中の神聖なる言葉である。この、ゆるやかなを呼吸する、リズミカルで、とても色彩鮮やかな詩文には、人間の喜怒哀楽、生死、来歴が、とても鮮やかに描かれており、世の中の出来事すべてを覆い尽くしそうな、それでいて一人の人間の瞬間の生を表しているような、はかなくて確固たる言葉が連なっている。生きるとは、こういうことだと言えてしまう恐ろしさが、優しさの裏に隠れている。
 作者は、キリスト人なのかどうか知らないが、宗教の持つ宇宙と交わることの神聖なる感覚が、普段の言葉として、とても穏やかに表現されている。描かれているのは、東北地方太平洋沖地震でヒビのはいった教会のステンドグラスの絵を説明しているだけなのだが、作者の奥底では、震災ということと切り離せない想いがあるのだと思う。おの書かれている言葉、一つひとつに何故か重みがある。に最初の13行を引用させていただく。




   重い扉をあけると
   祭壇を取り囲んで
   固い木椅子の闇が並ぶ
   窓にはナザレの人と使徒たちが
   ほのかに浮かんでいる
   目鼻おぼろげに頬をよせあい
   手足を軽やかにねじり
   踊っているように見える
   罪人も密かに紛れ込んで
   見分けの付かない深い青である
   息をゆるくしていると
   淡い魚のようなものが
   背骨をのぼってくる

         詩「ステンドグラスの異文」前文

 蛇足ながら、この詩の後半部分に散文で、このステンドグラスは、震災でヒビが入ったが、牧師の妻は、お金がないから治せないので、テープで貼ったと言い。その今にも砕けそうな空を見ていると、いよいよ礼拝堂らしくなり、神様が恵んでくれたステンドグラスだと書かれている。このことが書かれなければ、震災との接点は、この前半部分の詩行からは読み取れない。でも、私は、後半部分のステンドグラスの異文を説明する散文は、必要ないものだと思う。何故に、震災と結びつけようとすすのだろうか、それなしでも、十分い伝わってくる作品なのだと思うのだが。それが無ければ、もっと大きな偉大なる恐ろしいものに詩は近づいたのだと思うのだが、どうだろうか。


07:08:56 | tansin | | TrackBacks
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