Complete text -- "仙台演劇研究会通信『ACT』Vol.349"

13 August

仙台演劇研究会通信『ACT』Vol.349





 今号の『ACT』2011年8月号は、何故だか定形封筒に折りたたまず、定形外の封筒にきれい入れられて送られてきた。郵便料金の体系が変わり、いくら大きくても50グラム以内なら、定形料金なのかなと思ったが、どうもそうでもないらしい。薄い12頁あまりの冊子を折りたたまずに送る、その凛とした気持ちが爽やかに感じられた。

 中味はどうだったかと言うと、時々、詩集や詩誌を送っていただく詩人西田朋さんの、コラム〈ぶらり再発見〉での「〈ラッキードラゴン〉ベン・シャーン」に感じるものがあった。私も幾度か福島県立美術館に行き、常設展でベン・シャーンの絵を見ているのだが、ベン・シャーンが被爆した第五福竜丸のことを題材に描いている絵が展示されているとは、全然知らなかかった。そして、このラッキードラゴンの連作の絵を元にアーサー・ビナードが文章を書いて絵本(『ここが家だ』)を作っているとは知るよしもなかった。核の恐ろしさを教えてくれる絵本との出会いと、今、福島で起きている原子力発電所の事故の恐怖を重ね合わせ、西田さんは「人間の傲慢さを捨てて、方向の転換を今こそして行かなければならない時であると思う。」と文章を結んでいる。今、この世界では、放射能が自分たちの身近な存在として、見えない恐怖となって背中合わせのように、重くのしかかっている。また、震災に対しては、コラム=月評・八月=の「外側で(三)仙台フィルによるマーラー」で詩人竹内英典氏が、被災地に行きボランティアとして活動する若い人たちのことを書き、それに続けて「彼らの勁(つよ)さと感性に教わりながら、この外側の時間を過ごしている。」と震災に対する自分の位置を客観的に書きしるし、仙台フィルのマーラーの第五番の演奏に対して「そうして次に、弦による憧憬のような祈りのような旋律がやってきた時、聴くべきはやはりぼくではなく、あのあちらの未だ荒廃した地に暮らす、希望を遙かな彼方に見ようとしているひとたちではないかという囁きが弦の響きに重なった」と心情を吐露している。西田氏もそうであるが、震災を目の当りにし、直接的な表現にならなくても、この大災害は詩人の感性と思いに対して重くのしかかっていることを感じぜずにはいられなかった。





12:41:17 | tansin | | TrackBacks
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