Complete text -- "『ササヤンカの村』第18便"

08 March

『ササヤンカの村』第18便



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 栗駒の詩人佐々木洋一氏から久しぶりに『ササヤンカの村』第18便が届けられた。自分が出し始めた個人誌『喉』への返礼もあるのかもしれない。以前にいただいた『ササヤンカの村』は何便だったのか、手元から直ぐに出てこないのでわからないが、佐々木氏のことだから、定期的に発行していたのだろう。でも、2008年3月で18便ということは、空白がちょっとあるかもしれない。

 佐々木氏の「隙間切り」は、旧約聖書のヨブ記を思わせる作品だ。命がある以上、どこまでも続く生きるという営みに、誰でも疑問や不信感を持つときはあるだろう。そして、嫌になるときもあるだろう。もっと、より良く生きたいと思うときもあるだろう。その疑念を意思として表したときに、大きな存在に痛めつけられる。そのことがとてもさわやかに(ここのところが佐々木氏の真骨頂で彼にしか書けない詩だ)書かれている。作品は、前半部分の白い壁が延々と続く表現が前提となって後半部分が生きてくる。最後の部分を引用させていただく。

          (前略)

   エイ ヤッ
   隙間切り

   天下晴れて
   わたしの全身は
   死を擦り抜け

   真っ青な大地の広さに
   叩きつけられたのだ

          「隙間切り」後半部分

 そして、先日文芸誌『海棠』でも採り上げさせていただいた日和田真理氏は「かぐや」という作品を載せている。「かぐや」とはいったい何だろうか。わからない。わからないまま読み進めた。自分の中では、「かぐや姫」という言葉のイメージが消えない。
 日和田氏の詩は、断絶があるように感じる。断絶と書くと語弊があるので、言い換えると、物語をコラージュ的な手法で繋ぎ合わせて作品としている印象がある。この詩も、前半部分と後半部分でまったく違ったイメージとなっている。前半部分は、確かなものがない世界にあって、生きていることを血を流すように刺々しく確認しようとする言葉が続く、とても引っ掛かりがあり読みごたえのある表現だ。それが後半になると「かぐや」という言葉が出てきて、力強い言葉は消え、はかなさが全体を覆う。それは、生命感を表現するための対照的な表現なのだろうか。
 前半の第一連を引用させていただく

   覚めて押しやった夢の後に 見た事もない
   風影や会った事もない人々が閉じたままの目
   蓋の中をスライドしフラッシュする
   するどくギザギザと鳴いて夢を破る鳥が
   それらをボロボロにして枝の先にひっかけて
   廻る 冬の庭は夢の切れ端が色をなくした風
   のように旗めいて明けていく

          (後略)

           「かぐや」前半部分
09:45:08 | tansin | | TrackBacks
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