Complete text -- "個人誌『風都市』第30号"
20 March
個人誌『風都市』第30号
瀬崎氏の詩を読むと、いつも不思議な感覚に陥ります。何かが掴めそうで、掴めない。目の前に確かにあるのに、意識を切り替えて、その実体を自分なりに明らかにしようとすると、消えて無くなる。そんなもどかしい気持ちにさせられます。それは、瀬崎氏が、感覚で書いていないからだと思います。自分の作品を作品たらしめるための、もう一人の自分が、自分を見ている風景を常に持っているからだと思います。
平成28年冬刊の個人誌『風都市』第30号の作品も、まさにこの不思議な魅力を持った作品です。例えば、詩「雨を忘れる」も、やはり私の拙い言葉ではとうてい言い表せられない魅力を湛えた作品です。
鯨の親子が泣いている絵を
幼子が描いている
大きな丸と 小さな丸であらわされた鯨は
幼子のなかで
なぜ 泣いていたのだろう
降りはじめた雨のなかを
ふたりの中学生が傘をささないままに
横断歩道をわたっていく
彼らが向かう方角には
雨は見えていないのだろう
詩「雨を忘れる」前半の2連と3連目の最初の2行
この詩の冒頭の1連を読むと、子どもが描く鯨の絵が浮かんできます。大きな丸と小さな丸、親は大きくて、子どもは小さいくて。その単純明快さは、とても微笑ましいです。しかし、どうして鯨の親子が泣いていることが、ただの二つの丸から想像できるのか。ここで私は混乱します。この混乱は、意味がわからないからということではなく、最初から断定されているだけに納得させられた上で、さらに不思議に思うのです。
だから、どこかに手がかりを求めたくなります。ここからは勝手な読みです。鯨が空を漂っているとします。空で泣いている大きな哺乳動物の涙は、雨のように大量に地上に降り注ぎます。雨は、鯨が泣いているから降るのです、と仮定します。
すると、その雨が見えない中学生は、鯨は海の動物だと知っているから、幼子の中で泣いている雨を見ることはできません。
それに続く、第4連を引用させていただきます。
それでも
わたしが帰る家は
雨の向こうにある
詩「雨を忘れる」第4連
この連での「雨」は、空から降っている泣いている鯨の雨です。ですから、当然に「帰る家」は、現実の家、つまり自宅ではありません。丸い鯨が泳いでいる、鯨の涙が空から降ってくる、そんな世界にある「帰る家」です。幻想の世界でしょうか。それは、作者がそこに辿り着きたいと思っている想像の世界と言ってもよいのかもしれません。素直に考えると、何色にも染まっていない、可能性が沢山ある、無垢な、子どものような感性が働く、純粋な世界かもしれません。世間慣れし、物知り顔になった大人では、とうてい辿り着けない世界ですが、それでも帰りたいのです。
結局、ほとんど作品の全文を引用することになってしまいますが、最後の二連を引用させていただきます。
車のワイパーが
思い出したようにときおり雨を拭う
忘れられているわけではないのだな
詩「雨を忘れる」最後の2連
ここでの「雨」は、現実の雨です。しかし、確かに鯨の涙の雨です。日常の何気ない出来事が、急に意味を持つことがあります。その瞬間は、その人、その時にしか解らないことです。だから、大きな出来事でない限り、なかなか人には伝わりません。伝えることが困難です。でも、感じた人にとっては、確実に行動の動機となるものです。
最後の連の主語は、鯨の涙の「雨」です。そして、そこにもう一人の作者が現れます。この一行を書くことで作者はこの文章を詩として成立させていると言ってもよいのかもしれません。なぜならば、例えば「死を忘れる」という言葉があったとします。誰にでも起きる出来事を人は忘れてしまって生きることはできません。だから、どんな人でもどこかで死と向き合うことになります。それだからこそ、限られた人生が豊かになるということがあると思います。
単純なことを書けば、雨が降ることで、植物が育ちます。そして、水が循環します。それは、生きているということです。人は、死にたくない。死を忘れたい、けれど必ず死と直面するときがやってきます。と、考えることができます。
以上、無理矢理私の言葉で、例えばということで、この詩の魅力を書いてみましたが、どうも書き切れていません。瀬崎氏の詩は、読む人にとって、まったく違う印象、そして理解を残すのではないかと思います。それは、まさに言葉が心に感覚として届いた、つまり読み手の中で詩が成立しているということではないかと思います。まさにその現象が詩ではないかと考えるのです。
15:09:17 |
tansin |
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