Complete text -- "千田基嗣詩集『湾III』"

08 March

千田基嗣詩集『湾III』



 気仙沼在住の詩人・千田基嗣氏が第4詩集『湾III』(発行者:気仙沼自由芸術派 千田基嗣)を上梓しました。千田氏が今回詩集としてこれまで発表してきた詩をまとめたのは,何かの区切りをつけようということよりも,ある程度彼が編集を担当している詩誌『霧笛』に発表したものを中心とした詩編群が一つの形を成したということなのだろうと理解しました。それは,気仙沼の地形をひとまわりなぞったということに近い感覚なのかもしれません。


 
 私はこの詩集を読むに当たって,ちょっと遠回りをしました。それは,この詩集に収められている詩編は,全て東日本大震災の津波被害に遭った気仙沼において震災以降に書かれたものです。そして,その多くの作品を私は私なりの震災の記憶とともに,送られてくる詩誌『霧笛』で同時並行的かつ時事的に,それぞれが独立した詩作品として読んできたものです。それが塊となって詩集となると,ただ単なる詩作品の集合体ではなくなるはずです。そして,それは震災との関連で狭義に読み進めてきたかつての千田氏のそれぞれが独立した作品ではないはずだと思います。穿った書き方をすれば,一冊の本としての普遍性を見出すことが,私がこの詩集を読むに当たってのさしあたっての目標でした。

 そういった回りくどい思考を経て,さらにその上で言葉をただ言葉そのものとして抵抗なく受け入れる,つまり自然体で読むように努めました。そのために,幾度か読み返しました。具体的にそれは,東日本大震災との関連性を必要以上に持たないように読むこと,あるいはその逆に意識して震災のことを切り捨てて読むことはしないこと,という揺れ動きをしました。とにかくこの詩集『湾III』を,震災という色眼鏡で読まないように努めました。だから,一度,東日本大震災と切り離して,その次に全てを受け入れて,真っ新な気持ちで読む作業を行いました。

 端的に書けば,そこで感じたことは,<混乱>がある,ということです。海で例えれば,波に<乱れ>が形として見えるということです。それもくっきりと,です。それは,取り除こうとしても,容易には取り除けない気もしますし,簡単に取り除くこともできそうな気がします。用意周到な視線を持つ千田氏ですので,千田氏の取った態度は後者,つまり(簡単に取り除けるのだが)あえて取り除かなかったということではないかと思いました。

 千田氏のブログを読まれたことのある方はご存じのことと思います。千田氏は,自己紹介の短い文章において,リベラリストと自分を語っています。あえて外国語の読みを使っています。日本語の一般的な訳となる「自由主義者」という表記では表せない生き方を目指しているとも読み取れますが,私が思うことは「リベラリスト」という言葉は,日本においては処世術ではないかということです。

 詩は処世術ではない,と断言できます。いや,断言したいという気持ちが私にはあります。世間的には,そのどちらでも良いのですが,千田氏にとって詩とは何か。そんなことは答えの出ないことなのだと思いますが,千田氏が<混乱>をあえて書き残したことは,つまりはリベラリストだからできた処世術ではないかと私は考えるのです。ですから,千田氏の核心はそこにはないということです。

 では,何のための処世術なのか。そして,核心とは何か。と,なるのですが,他人ではそれは容易には想像できないものであるし,容易に想像できる何でもないこと,と言い切ることで,私の詮索は終わりにしたいと思います。

 それで,肝心の作品についてです。私が読んでいて気づいたことは,初出では,一旦,消えかかった千田氏の<視線>がこの詩集では戻っているということです。これは,字面で確認したことではありません。ただ単に読んだ印象として感じたことです。しかし,私自身の感覚としては,その違いは確信ができることです。もしかして,その確信できるものとは,私の自身の変化であるのかもしれません。

 千田氏の<視線>とは,私なりに理解すれば,「何ごとにもとらわれない客観的なものの見方」ということになります。そして千田氏の詩の特徴は,まさにそこにあると私は思っています。千田氏の<視線>が消えているいとうことは,<自分>が世の中の事象に埋没していると言ってもよい状態です。つまり,自分が何者かわからないにしても,実社会において自分というものが自分で見えていない状態です。そして,それが,私が感じた千田氏の場合の<混乱>ということになります。そういう状態では,人は世の中の風潮に得てして流されている場合があるということです。先ほど,私は千田氏の<視線>が戻ってきていると書きましたが,それでもやはり,初読で感じた<混乱>がまったく消えたわけではありません。ですから,千田氏はあえて世の中の風潮に流されている状態をこの詩集に残したと言えます。

 このように書き進めてゆくと,ひとつひとつの詩をどうのこうのと引用して書き記すことがあまりにも無駄な気がしてきました。この詩集に書かれている言葉の一つひとつがどういう意味を持っているのか,この詩集がなぜ編まれ,どうして世に出され,何を言いたいのかということ,それは,結局は一つの問いに収斂してゆくと思えてならないからです。その問いとは,「どうして<混乱>を書き残したのか」ということです。

 例えば,この詩「男たちは酒を飲み」は,

   男たちは酒を飲み談笑する
   冗談を語って笑う
   薪ストーブの火は柔らかく暖かい
   昼間のこと昨日のこと十年前のこと
   そしてつい半月前の海のこと

   男たちは酒を飲み談笑する
   ベニア板の屋根の下
   ブルーシートの壁の中

   外は冷たい夜
   泣くものはひとりもいない

               詩「男たちは酒を飲み」全文

 ここでは,一つの状況を提示して,次に反対な状況を提示するという書き方をしています。この引用した詩では,「談笑する」,「笑う」といった微笑ましい人間の姿が描かれているのですが,それが一転して最終の連では「冷たく」,「泣くものはいない」と逆の視点で状況が表現されています。どちらの言葉も同じことを語っていると思います。

 次のページに並べられている「白い雲」も同様です。

   窓の外に青い空
   よく晴れて白い雲が浮かんでいる

   昨日は曇り空だった
   どんよりと雨が降り出しそうな
   一昨日は雨だった
   全天を覆う鼠色の雲
   その前の日は
   晴れ
   特筆すべき特徴のない晴れの日
   ありふれた
   凡庸な晴れの日
   おおかたが雲に覆われ半分に満たない青空

        (中略)

   今日は
   晴れ
   特筆すべき晴れ
   輝くような白い雲のぽっかり浮いた
   特別の晴れ
   快晴
   絵本に出てきそうな典型的な白い雲が
   十個ほど浮かんでいる
   昨日とも一昨日とも違う特別な晴天

               詩「白い雲」一連,二連,四連

 「ありふれた/凡庸な晴れの日」と状況を一旦提示しておきながら,次に「今日/晴れ/特筆すべき晴れ」と逆側のものの見方で連を繋いでゆきます。

 次の「涙が頬を」でも,

   地球は
   軟式テニスボールのゴムなんかより
   ずっとずっと滑らかだそうだ

   深い海も
   高い山も
   地球の大きさに比べたら
   モノの数ではない

        (中略)

   でも
   人間にとって
   深い海は深く
   高い山は高く
   涙は
   冷たく
   暖かい

               詩「涙が頬を」最初の二連と最後の一連

 この詩でも,宇宙という大きな視点での見方と,宇宙に比べれば人間という米粒よりも小さな視点での見方,二つの違う見方で連を繋いでゆきます。

 この書き方は,何ものにもとらわれないという,千田氏の詩の特徴の一つです。肯定的自由と否定的自由の並立ということなのかもしれませんが,これ以上,哲学的なことを語る知識は私にはないので,この点についてはさらりと通り抜けたいと思います。この他にも,この詩集に収められた多くの詩の中にこの特徴が表れます。この表現は,私が感じた<混乱>ではありません。初読では,この表現自体が<混乱>であるとも感じたのですが,どうも以前の作品に比べて目立って多いという点以外は,あまり変わっていないと思うようになりました。

 では,私が感じた<混乱>とは何かということです。それは,例えば,詩「闇の中で」を引用します。

   漆黒の闇の中で動いているものがある
   見えない
   見えないが動いている巨大な塊り
   滴り落ちる水滴
   聞こえない
   聞こえてこがいが落ちている

        (中略)

   見えもせず
   聞こえもせず
   さわることもできず
   冷たいのか熱いのかどちらでもないのか
   感知することができない
   満腹なのか空腹なのか疲れているのか
   何も分からない
   何も分からないのに
   そこに何かある
   そして私がいる

   私は何を語ろうとしているのか
   何を語るためにここにいるのか

              詩「闇の中」最初の二連と最後の二連

 この詩は,前に引用した三篇の詩とはちょっと違っています。「冷たいのか熱いのかどちらでもないのか/感知することができない」,「満腹なのか空腹なのか疲れているのか/何も分からない」と物事を両義性で語ることを放棄しているように感じます。千田氏の<視線>が消えているような印象を持ちます。

 続いて,詩「ありがとう」を引用します。

   今
   ここで
   息をしていること
   今
   ここで
   水を飲んでいることに
   今
   ここで
   食べていることに
   今
   ここで
   陽をを浴びていることに

        (中略)

   今
   ここで
   あなたといることに
   あなたの声を聴いていることに
   あなたに語りかけていることに
   あなたがいることに
   あなたを抱いていることに

   あなたがここにいることに
   
   海が
   波立つことに

   ありがとう

               詩「ありがとう」最初と最後

 この詩は,とても穏やかな作品です。いや,敢えて書けば,あまりにも穏やかすぎるのです。海に例えれば,凪の状態です。この詩集の構成はよく考えられていると思います。穏やかな凪の状態から始まって,次に嵐がやってきて時化となり,最後にまた凪の状態に戻るというフェードイン,フェードアウトで見事に作られています。凪の状態の詩は,千田氏の<視線が>自然に同化している(しまっている)のではないかと思います。ですから,祈りのように心が安らぐとても美しい詩です。そういう詩が,数多くこの詩集には収められています。私は,そんな詩がとても好きです。そして,だからこそ<混乱>をこの詩集に私が感じたのではないかと思います。<混乱>とは,正体がないのです。

 千田氏がどうして,敢えて<混乱>を書き残したのかは,その答えは読者に委ねられています。私も一人の読者として答えを探したくなるのですが,容易には見つからないような気がしています。

 最後に,<混乱>がはっきりとした形として見えるということは,千田氏のこの詩集の中に普遍的なもの(千田氏の言葉で言えば「美しいもの(前出の「美しい詩」とは違います。)」につながるものがあるからこそ見えてくるのではないかと思うのです。



 


00:55:54 | tansin | | TrackBacks
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