Complete text -- "詩誌『ササヤンカの村』第24号"

21 December

詩誌『ササヤンカの村』第24号



 佐々木洋一氏の詩の真骨頂は、誰でもが見えることを、これでもかというほど徹底的に自分の言葉で表現することではなかと、「ふと」思ってみました。それは、人の予想や常識を裏切る行為(あるいは過程)と言っても良いかも知れません。例えば、

   垣根の傍らで鶏が鳴いている
   鳴いている
   そこにも朝はやってきて
   身をのり出ししきりに鳴いている

             「鶏」後半部分





 この作品では、「鳴いている」ことを執拗に書いています。まず、「鶏が鳴いている」、次に「鳴いている」、そして「身をのり出ししきりに鳴いている」と。僅か四行で、三度も鳴いていることを描写をしています。不思議なのは、必ずしも同じ鶏が鳴いているという感覚にならないということです。さらに、果ては、鳴いているのは、鶏なのか、それとも全く違う別なものなのか、不確かになるということです。この妙な感覚が「詩」(つまり自分という存在が引っかかった)なのかなと思います。

 このへんてこりんな感覚に陥るのは、私だけなのか、そうでないのか、それは解りませんが、この「鳴いている」という瞬間のリフレイン(繰り返し)は、一見、さらりと書いているようで、とても強固な言葉の厚みを持ってると思います。どうして、そのように読めるのかについては、「むなしいという闇の奥」というこの詩の冒頭の行に書かれている言葉、「身をのり出ししきりに」という言葉など、いわゆる佐々木洋一節と表現するしかない言葉による新しい感覚(現代的という意味ではない。どちらかというと「根源的」かな。)の表現の仕方にあると、私は思っています。

 では、作品「宝物」ではどうか。

   林の中の朽ちかけた家

   宝物はないか

             「宝物」冒頭の二行

 この作品は、「宝物はないか」という言葉に引きずられて、次々と朽ちかけた家の中にある宝物が、あれこれと繰り返し出てきます。それは過去から今に至る時間の流れを凝矚したような、「朽ちかけた柱のキズ」や「腐りかけた床の重み」、「まだ表情をたたえる床柱」だったりします。そして、最後に、

   南の方から光が入る窓

   限りなく手を振ったあの日のカーテンの陰

   少女の、

   奥歯

             「宝物」最後の四行

 「少女の奥歯」という言葉から換気される印象は、とても俗物的に感じます。しかし、どうも神妙に私には感じるのです。はて?どうしてだろう。それは、「奥」という言葉と「朽ちかけた家」という言葉の重なりが、私にそういう印象を植え付けているのかもしれません。つまり、昔、少女だった美しい姿が、今は朽ちかけて「奥歯」しか残っていないという、それは老いぼれたおばあちゃんという想像に繋がります。

 この落差をどう受け止めるのか。それは、陰影と言っても良いかもしれません。どこか暗いものが忍び寄る闇のようなものです。そして、私にはそれがどうしても不均衡に感じ取れるのです。光の部分と繋がらない、そんなことです。ここに、とても大切な「可能性」があるような気が、なんとなくしてきました。

 他の二作品にも、「沈降」(詩「意表」)、「隠れている」(詩「箒」)という陰影のある言葉が入ります(深読みです)。現在の佐々木洋一氏の詩の力を感じ取るためには、この陰影を自分の心の印画紙に如何に繊細に浮き上がらせることができるのか、写し取ることができるのかということになるのかなと思った次第です。



 

 
00:01:04 | tansin | | TrackBacks
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