Complete text -- "詩誌『この場所 ici 』第12号"

08 June

詩誌『この場所 ici 』第12号



 栗駒在住の佐々木洋一氏から、詩誌『この場所 ici』第12号が届いた。いつもなら、さらりとした近況報告のような紙片が入っているものを、封筒の隅々、詩誌のページの間、どこを見ても入っていない、どうも気になる。


 



 その代わり、5つのコピーされた紙片の塊が入っていた。一つは、仙台演劇研究会情報誌『ACT』5月号の中のコラム【ミュージック・プロムナード】の「美しき天然(田中穂積作曲 武島羽衣作詞)」と題された連載のもののエッセイ、一つは、詩人会議1月号に掲載されているページ上に「原発報告」と記されている特集なのだろうか、その中にエッセイ「3.11以後のむしゃくしゃすること」、一つは、日本詩人クラブ 詩界262号の<地域からの視点>という特集(若しくは連載もの?)の「田舎暮らしの日々の断片」と題されたエッセイ、もう一つは、詩誌『Po』春号の「わが思いの母、新川一江」というエッセイ、一つは、『詩と思想』5月号の<壁を超えて>の中の「防潮堤という壁を挟んで」というエッセイである。

 これら5つの紙片が意味するものはなんだろうか、と考え続けていた。

 肝心の詩誌『この場所 ici』第12号の中の佐々木洋一氏の作品は、「雪道」と題された、最初の一行がとても美しい作品だった。だったと書いたのは、読み進むにつれて、ついに最後の一行に行き当たるからである。冒頭の一行と、リフレインで現れる中の一行、それに最後の一行を、誠に勝手なやりかたであるが、引用させていただく。

   雪道を初めて歩く人は 期待している

             詩「雪道」冒頭1行

   しろく しろく しろく どこまでもまっすぐに しろく

             詩「雪道」間の一行

   その純粋で無垢に恥じる存在

             詩「雪道」最後の一行

 この3行の行間に、佐々木氏の歩んできた(と思われる)人生が比喩として表現されている。そこに書かれているものは、まさに佐々木氏から頂く詩誌とともに入っている近況報告の紙片そのものである、ような気がした。そして、佐々木氏のつぶやきのようなものが、今号では詩作品になっていると思った。それが良いのか、悪いのか、私には当然のごとく判断できない。あの日、ササヤンカの詩に夢中になった若い頃の私には、何も言えないというところである。

 それで、最初に書いた5つのコピーされた紙片に戻るが、そこに書かれている文章は、佐々木氏の生活なのだと思う。こういうことを考えて、こういう生活をしていますという近況報告のようである。

 佐々木氏の詩は、それらの生活に裏打ちされた強いバネがあったと思う。バネは、見えないところで大きくはねる。だから、詩を読む者は驚くのだと思う。私は、そういった詩が好きだった。いや、これからもそういう佐々木洋一の詩が好きだと思っている。そして、今回の詩「雪道」であるが・・・・。バネが見えてしまっているような気がしてしょうがなかった。だから、どうも、「最初の一行が好きだった」と過去形になってしまうのだろうか。

 そう語る私自身が、もう既に過去の人間なのかも知れない。



 

01:49:48 | tansin | | TrackBacks
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