Complete text -- "詩誌『霧笛』第2期第33号"

26 April

詩誌『霧笛』第2期第33号



 今年(2015年)1月24日に詩誌『霧笛』の編集人千田基嗣氏に大河原までお越しいただいて、約1時間半お話をしていただいた。一応、テーマは、「気仙沼で詩を書き続けること、詩誌『霧笛』のこと」という設定ではあったが、話の内容等については、特にこちらからは特段、注文をつけるようなことはしなかった。私が大河原で続けている「無意味な意味の尾形亀之助読書会」は、何も尾形亀之助にこだわっているわけではない。

 千田氏の話の半分は、東日本大震災の日の千田氏の取った行動や、周りで起きていた出来事を事細かに時間を追って、記憶を辿ったものだった。正直、私にはそれは意外なことであった。もう一度確認すると、その話は気仙沼で「あの日」起きたことでなく、千田氏個人にあの日に起きた出来事ことを話した、ということなのだろうと思った。私は、千田氏特有の、物事に対して自分の位置をちょとずらして、客観的な距離を作り、傍観者のように、あるいは観察者のように語るその話には、好感を覚えた。言ってしまえば、ある一人の人間に起きた日常を淡々と語っただけの記録である。そこに、個人を超えた感情やら思想(想い)はなかった。


 千田氏の話が一通り終わって、私はテーマに沿って考えていた質問を千田氏に向けた。それは、「気仙沼で詩を書いて、そして詩誌を編集・発行していることで、気仙沼という土地のが生み出す独特な詩というものは在るのだろうか。」というものだった。それに対して千田氏は、「特にない」と応えたように記憶する。敢えて言えば、「気仙沼という土地に住み(なんらかの関係を持って)、そこで書いている」ことで十分ではないかというということも述べられたように記憶する。

 その後、3月に入って詩誌『霧笛』第2期第33号が送られてきた。私は、しばらく鞄に入れたまま読まずにいた。それは、ちょっと、詩誌『霧笛』と距離をとってみたかったという気持ちが、私の中のどこかにあったからだったかもしれない。詩誌『霧笛』に対して、あまり先入観をもたないで読んでみたかったということに近い感情があったかもしれない。その先入観とは、まさしく震災のことと安易に作品を結びつけて読むことに嫌気がさしたということだと思っている。

 そして、昨日(2015年4月25日)に、約2ヶ月の時間をおいて読んでみた。しかし、自分の頭の中には、震災のことと作品を結びつけたくなる気持ちが残っている。当然に、気仙沼に住んでおられる、あるいは関係している方々の作品には、東日本大震災のことが書かれているものが多いという印象を持つが、実際は表出される言葉としては、震災のことと直接に関わる作品は、かなり少なくなっている。そして、私は通読した後に、震災のことが直接に書かれている作品に、<ためらい>があることが気になった。例えば、

   あの日 私は泣かなかった
   あの日 私は叫ばなかった
   ただただ驚きと悲しみで
   現実を受け入れるしかなかった。

        (中略)

   それでも月日は流れて行き
   私も忙しく毎日を過ごしている
   そも中で失った人を思い出すことが多い。
   そして思い出しては涙が流れる。
   今まで気づかなかった想いや言葉の意味。
   何も出来ずにただ立ちつくすだけだった
   あの日の私を
   今、泣かせてあげようと思う。

             菊池さかえ「あの日のこと」冒頭及び最後の一連


   あの日以後 様々な分野からの

   細かな質問に くり返し応えてきた

   人 ひとりがどのように

   経済 身体 心理状況

   家族 親戚 ご近所

   どれだけ世の中と繋がっているのか

   風に晒されて痛む 傷を庇うように

   心が閉じる

             照井由起子「課題 長期戦」冒頭の二行

 私が感じた<ためらい>とは、2011年3月11日には個々人の中で様々な出来事が起こったのに、それを「あの日」という三文字でしか表現できない、いや表現しようとしない、そのことにうんざりしたとか、思い出したくないとかという気持ちが働いているのではないかということであった。

 しかし、よくよく考えてみると、作者にとって、あの日は、忘れられない日、戻れない日であっても、今生きている一日一日と同じ、ただの一日である。だから、詩が生きるための支えとなるということでは、2011年3月11日にいつまでもこだわっていても、生活は先には進まない。だから、「あの日」という三文字に置き換えて、菊池さかえ氏は、「あの日」の納得できていない自分の振るまいに対して、それでよかったのだと詩を書くことで整理しようとしている。照井由起子氏は、「あの日」のことが記憶の中で繰り返し思い出されることの辛さを耐え抜こうとする気持ちを詩で詠いあげることで、自分を奮い立たせている。この、「あの日」と書くことだけで伝わってくるものは、先入観なのかも知れないけれど、「気仙沼という街に詩誌があることの豊かさ」を語っていた千田氏の話を思い起こさせてくれるし、土地で詩をかくこと、そのことの意味が如実に表れたものだと思わずにはいられない。

 要は「あの日」を経た自分の始末を行っているのではないかと思う。「あの日」は、忘れようとしても、決して忘れることができないけれど、言葉に詠いあげることで、気持ちが楽になるのではないだろうか。そこには、詩のあり方としては、とても大切なものがあると強烈に思わせてくれた。

 ほぼ、詩誌『霧笛』第2期第33号について、書きたいことは書き尽くしたような気がする。「気仙沼という街に詩誌があることの豊かさ」ということで書けば、西城健一氏の「裸木」は、とても美しい作品だった。そして、及川良子氏の「砂浜は 貝の褥」は、砂浜が失われること、そのことで生命の神秘さと、人と自然の関わりの豊かさが壊死することの危うさに警告を鳴らし、詩という武器で闘おうとしている彼女の意思を強く感じた。千田基嗣氏は、例の調子で「あの日」の詳細を明らかにしようとしている。

 最後に、蛇足になるが、昨日、詩誌『霧笛』第33号を読み終え、上記のようなことを考えながら観てきた「企画展『青野文昭個展 2015』(於:ターンアラウンド(仙台))のことを書かせていただく。

 この展示では7点ほどの「なおす」という作品(オブジェ)が置かれていた。どれも、震災で波打ち際に流れ着いたがれきを拾ってきて、直したものだった。つまり、一旦壊れて、本来の用途を失い、廃棄物となったものを、修復し、再度価値のあるものとする作業を「なおす」という言葉でタイトルとして表現したものだと理解した。

 壊れた物を、修復するということは、青野氏の行為では、美術作品として価値を持たせるということになるのだろうなと考えて観ていた。いや、そうとしか思えなかった。私の中では、その行為は、ただただ人が観て美しものに思える物に作り替えているだけの作業にしか思えなかった。

 青野氏にとって、「あの日」はいったいどんなものなのだろうか。それは、私が知ることのできないことなのだが、最低限、青野氏にとってあの日は、過去のそれまで自分が行ってきた作品を作る延長上での、かっこうの素材が生まれた日、であったとしか思えなかった。まず、自分が物と向かい合う前に、自分とその物との関係をしっかりと考えた痕跡を、そこに見出すことはできなかった。

 具体的に言えば、企画展ではない方に展示されていた2011年2月に作製されたオブジェとさしたる変化はないと感じたからである。変化は、ただ素材が変わっただけである。物事は、特に美術の世界では、美しければ良い、という簡単な世界ではないはずである。

 以前から青野文昭氏の作品には興味を持っていて、期待を抱いて観に行った割には、期待外れであった。というのも、詩誌『霧笛』第33号を直前に読まなければ、感じなかったことかもしれない。



02:31:02 | tansin | | TrackBacks
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