Complete text -- "季刊『ココア共和国』vol.17"

06 April

季刊『ココア共和国』vol.17



 定期的に発行が続いている季刊『ココア共和国』vol.17 が届きました。いただいて、最初に読んだ金澤一志氏の作品「記号スクラブ」は、他人行儀な表現だなと思ってしまいました。多分、金澤氏は、自分の立つ位置が他所(よそ)にしっかりとあるのだろうと思いました。「他所」とは、詩の世界の外での思考ということです。発行者の秋亜綺羅氏の編集前記を読むと、金澤氏は、北園克園の研究家だそうです。そういうことが影響しているのだろうなと勝手に思ったりしています。よく研究者のように実証的に客観的な目で物事を見ようとする方々の書かれる実作は、”よそよそしい”ものが多かったりする、というのが私の経験則です。


 




 どうして”よそよそしい”のか。それは、物事がよく見えているからなのだと思います。そして、金澤氏にとって、世事の出来事や事物が、ことごとく、あたかも記号のように見えるように視界にフィルターをかけるのかもしれません。そういった、金澤氏の思考を経て視界を通過したもの、物証が示すものが言葉として頻繁に出てきます。

   あなたは綺麗な膝小僧のために世界を救う
   ピクニックに誘い
   木漏れ日を掻き分け
   小さな拳銃を突きつけ
   古いライトウェイを荒馬のように乗りこなし
   風もないのに
   風に巻かれて立ち去った
   ふっくら尖った唇
   ひきしまった乳房
   あなたの美しい膝小僧が
   世界に異を唱えている

             詩「記号スクラブ」最後の一連

 こういう発語の主体が、外の世界にある言葉の使い方は、いわゆる詩的な表現の中に埋没してきた詩を書こうとする者にとっては、とても新鮮に感じ取れます。それは、明治以降の、それまでの鎖国政策から欧米の文化を積極と取り入れ、その刺激によって、日本の文化に新しい風味が生まれたことと、ほとんど同じように感じます。

 この「あなたは(の)・・・・」と書く時、作者は思入れを込めているわけではなく、自分はそうじゃないということを、そして醒めていることをあえて示したいのだと、そういう強い意図を感じます。

 詩的な表現、情緒を否定しているのではなく、これまでにない方法論で詩を書こうとしているように感じます。その結果、外的刺激によりある種の新鮮味が詩行に含まれます。そういう意味で、とても新鮮な作品に、私は感じました。

 黒崎立体氏の作品「あざ」は、ここちよく読めました。多分、心地よく読めてはいけない作品なのだろうと思いました。つまり、この詩を読むことで。読む側の人間、その人間自分自身の意識の中に、あざのような、ざらざらとした異物感あるいは不快感が生じることが必要なのだと思います。

   すてられたさかなの息で、そのからだは微かにはためいている。
   土にまみれるとそのみずっぽさがきわだつ、生きて、いようとす
   ることがようやく、おかしくなる。死ねばいいのにと、ひとのや
   さしさで言える、

             詩「あざ」第三連
 
 この第三連の前にある二つの第一連と第二連は、ひかりが木にあたり、そこに「あざ」ができ、そこから木が裂けてくるという、言葉として柔らかさから示される出来事としては透明で美しい景色を映し出します。そこに、違和感はさほどありません。いや、むしろ気持ちよい、穏やかなひかりと爽やかな風(推進力)に包まれた情景が、破綻なく続きます。そして、第二連の最後の「ひかりを、なじった」という日常ではあり得ない言葉の状況に続く、上記の第三連では、それまでの前提にない言葉が連なっています。

 「すてられたさかな」という言葉が突然に出てきて、それまでの印象が混乱します。新緑の美味しい空気の中に魚臭が突然混じってきたような、そんな感じです。意識の中で言えば、これまで、あった世界がすべて、ただ読者一人だけ(自分一人だけ)を残して、ズレた。そんな感覚です。そして、立て続けに、「さかなの息」という、この連の言葉の流れとしては自然ですが、現実にはない混乱に輪をかけたように想像をかき立てる、あるいは萎えさせる詩的な言葉遣いが出てきます。

 多分、さかなは、陸上に打ち上げられて、ピクピク動いているのだろうと思います。そして、砂まみれになって、みずみずしさを失ってゆき、死に絶えるのだと思います。その命の生々しさ、重々しさ、死の残虐さを、詩行の中で感じ取るために、作者は、前の二連の調子を落とさずに、敢えて「生きて、いようとすることがようやく、おかしくなる。」とさりげない表現で表します。この不自然を不自然と思わせない言葉の感覚は、素敵です。

 しかし、私は、この詩にも、やはり、”よそよそしさ”を感じます。それがいけないと思っているわけではなく、面白いのです。黒崎氏のこの作品は、先に示した金澤氏の作品と同じで、他所(よそ)に立ち位置を持つ、そういう客観的な意識を持っています。それが、外的刺激だと言っても良いと思います。

 詩が、言葉として韻を踏んだり、繰り返しを行ったり、世界を含有しようとして抽象的な表現を行ったり、また人間の言葉としての「生きる」証だったりする。そのような表現を詩的表現と言えば、この”よそよそしい”という立ち位置からの客観的な視野で言葉を使うことには、前記したこれまでの詩の表現がなくても、作者の中での言葉遣いが理にかなっていれば、それは詩と言えるという、詩として成立しているということだと思います。

 そして、秋亜綺羅氏の作品「メモ帳はないか」は、上記二人にはないものがあります。これまた”よそよそしい”ではあるのですが、外の立ち位置から客観的な視野で言葉を遣うのではなく、主観的に遣おうとする<混乱>があるような気がします。それは、最初に述べた他人行儀なことと関係あると私は思いました。


   人形が
   解体したかったのはなんだったろう

   かたちでなく
   たぶん、ひと

   ぼくたちが
   カットしたのはなんだっただろう

   複数形じゃなく
   リストと呼ばれるたぶん、ぼく

   ぼくは昨晩
   雪見だいふく 作り方 で検索しました

             詩「メモ帳はないか」最後の五連

 つまり、”よそよそしい”「あなた」は、あえてここでは「ぼく」という自分自身であるかのような主語を遣い、本当は他所(よそ)なのに、今所(ここ)であたかも起きているような混乱を生んでいるのではないかと思うのです。

 ちょっとした悪戯ですね。<混乱>は<疑心暗鬼>と言っても良いのかもしれません。

 これら三篇の詩は、方法論が際立ちます。作者の拠って立つ、立ち位置がよく私にはわからないので、「気がする」とか「思う」とか、まさに自分勝手な感想になってしまうのですが。私の最大の興味は、この詩の外から出てくる、その素となる先の方法論、別な言い方で言えば外的刺激は、新鮮味というとても魅力的な言葉を生むのですが、それが果たして、日常的に今の詩に触れていない、あるいは作者(方法論)を知らない人にどれだけ、新鮮味として伝わるのか。伝わったとして、それが新鮮味以上の魅力として伝わるのだろうか、ということです。

 つまり、詩に興味のある人、あるいは作者に興味のある人以外にどれだけ、これらの作品は読まれるのだろうかということです。感覚を研ぎ澄ますことで詩が読まれる。この詩誌を手に取る、そこに行き着くことを、”よそよそしさ”が拒否しているということにならないかということを思いました。

 最後に、編集で意図したのか、しなかったのか、わかりませんが、冒頭の清水哲夫氏の「自分」が言葉に溶け込んでいる作品との対比で読むと、とても面白かったです。





 




 
00:18:35 | tansin | | TrackBacks
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