Complete text -- "秋亜奇羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』"

23 August

秋亜奇羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』



 私に詩の関係書物が送られてくるのは、僅かです。なので、丁寧に読むこと、そしてその感想をこういう形でブログに載せることが礼状だという思いでいます。ブログの記事にしていないものもありますが、自分なりに読む努力はしているつもりです。それは、今後、なにかの言葉となると信じています。

 ということで、宮城で言えば、気仙沼の『霧笛』、仙台の『a's』と並んで定期的に読ませていただいている『ココア共和国』の秋亜綺羅氏から、第二詩集が出たと思ったら、早くも第三詩集が送られてきました。

 この秋氏の詩集を読むにあたって、私は意味もなく、ミッシェル・フーコー+渡辺守章『哲学の舞台』(増補改訂版、朝日出版社)を手にとって読み始めました。強いて言えわせていただければ、演劇との関連で「舞台」という言葉が引っかかったという感覚的な理由はあるのです。私の書棚にある演劇関係の本となると、この本が真っ先に浮かんだということで、それはただの偶然なのです。その中にこういうミシェル・フーコーの言葉があります。





 「哲学の最大の問題の一つは、ものを見るという事実は何に拠っているのかを知ること。というか、自分の見ているものが真実か幻影か、現実の領域の属しているのか虚偽の領域に属しているのかを知ることだった。現実のものと幻想のものを、真実と虚偽を分割すること、それが哲学の役割だった。
  ところで、演劇とは、このような区分を全く知らないなにものかです。演劇が現実か幻か、真実か虚偽かを問うことは意味がない。このような問いを発するなら、それだけで演劇は消滅してしまう。事実と虚偽、現実と幻想の<非差異>を受け入れることこそ、演劇が機能するための条件なのです。」

                (16ページ15行目〜17ページ6行目)


 私は、ハッとして、そこで手に持っていた書物を、詩集『ひよこの空想力ゲーム』に持ち替えました。そして字面を読み始めましたが、まったくもって言葉の意味が頭の中に入ってこない感覚を味わうこととなってしまいました。どうして、そういう感覚に陥ってしまったのか。

 つまり、私は秋氏の言葉に、現実を見ようとしていたのではないか。虚偽を切り取った現実を、真実を。それは、先のミシェル・フーコーの言葉で言えば、秋氏の詩が演劇的な手法を借用しているのならば、まったくもって意味のないことになります。

 以上が、この詩集に対しての私の感想です。秋亜綺羅劇場に入るのも入らないのも、その人次第である。ただ、その劇場内に、演じられる空間に、入らないで、物陰から覗き込んで見ていてばかりしていては駄目なのだと思った次第です。私がこれまで秋氏の詩に対して、「無意味な詩」と語ってきたことを繰り返すばかりなのだなあと思います。

 では、私がこの招待状をもって劇場の扉を開けるのかと問われるのならば、「時すでの遅し」ということなのだろうなと思います。劇場に一旦入ったならば、演じられる役者、小道具、大道具、そしてあらゆる装置が意味を持つということになります。なので、どの言葉を拾っても、語り始めたら止まらないほどのおもしろみがあるのだろうなと思います。

 けれど、私にはその扉に、いや劇場に足はむかないなぁ〜と思った次第です。当然に、私の興味の外ということなのだと思います。つまり、結局は「無意味」ということななるのです。その一点でしか、秋氏の詩に可能性(意味)は私は見つけられないということになります。





19:37:15 | tansin | | TrackBacks
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