Complete text -- "ササヤンカの村第21便"
25 December
ササヤンカの村第21便
言葉で言葉をイメージする。思いっきり、生きているっていう言葉をイメージする。すると、するりと出てくる言葉がある。佐々木洋一氏の詩「遠い日々」を読んでそう思った。一行一行の言葉が、屹立している。柔らかく温かいけれど、人を切り裂く厳しい表情をしている。時間をキル覚悟があるのだろう。喜怒哀楽、生死霧散の生命の鼓動を言葉で表す覚悟があるんだろう。親が子を思う気持ちと真逆で幼子は親を思う気持ちを持たない。自然を生きるための生理しかない。それを必死に食らいつき、親子の関係を築こうとする遠い日の、親子の日常を一瞬の言葉で唄い上げている。いつも詩の力を感じる詩人ある。
最後の五連を紹介する。
一切の親子の断絶
山手にちりぢりばらばらの雨雲
小川にしぶき
叫び続けると
やがて泡を喰った女がしぐれのように駆けて来る
詩「遠い日々」最終部分
佐々木洋一氏は、詞書き「ササヤンカの村から震災に思うこと」の中で3.11震災に対する思いを書き綴り、最後に「今回の震災による大きな痛みがなかったもののざれごとであるが、・・・・」と自己の震災に対する位置を書きしるしている。そして、日和田眞理氏は、詩「天体」で宇宙の時間と距離の波のような不変な関係をさらりと日常の中で書き記しながら、遠くで起こった出来事に対し、宙にぷかりと浮いている自分という流れゆく存在のざわめきの中で、なにかしらの関係を持とうとしている。最後の1連を紹介する。
架空の森の中で漂流している自分は
本当の海辺で起こっている事を
受け止める事が出来るんだろうか
歪んだ天体を元の形に戻そうとして ずっと
地震は続いていた
自転も公転もしない僕達に
夕飯が運ばれてくる
真っ正直な作品だと思う。佐々木氏の書く生理と、日和田氏の書く宇宙の摂理は、どちらも己の意思ではどうしようもできない、人間の悲しさを書き表している。詩の言葉は非条理な現実に対して、どこまでその存在感を近づけることができるのだろうか、と思った。
11:18:09 |
tansin |
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