Complete text -- "仙台演劇研究会通信『ACT』Vol.348 2001年7月号"

23 July

仙台演劇研究会通信『ACT』Vol.348 2001年7月号




 まず初めに、仙台演劇研究会通信『ACT』は、震災の中でも発行を休みなく続けていた。その不屈の精神に敬意を表したい。当然ながら今号の『ACT』にも、震災の関係のエッセイや詩が掲載されている。最終ページ〈風のたより〉には、佐々木洋一氏が詩「いつものように ーーー2011年5月6日石巻市北上の被災地にて」を掲載している。震災に遭って詩人はどんな表現を行うのか、それは人それぞれだが佐々木氏の詩は、被災地に赴き、非日常的な出来事を目の前にして、自分が日常の中に生きていることの戸惑いを素直に表現している。無理に、震災のことを言葉にしようとしない姿勢が好きだ。最後の二連を紹介させていただく。


        (前略)

   うそぶいている海 どよめいている漣
   何かあったのだ 何かが騒いだのだ 何か後ろめたいのだ 何かが変わったのだ
   暗澹たる海 項垂れる漣
   
   いつものように
   いつものようにベンチに座り
   あの世の 雲雀の行方を追っている

               「いつものように」最終部分

 詩人竹内英典氏は、「月評・7月 外側で(2)再生の劇を見る」 において、3月11日に起きた震災に対しての詩人としての自己の態度を、「外側でぼくが出来ることは、「そのひと」を思い続けることでしかないかもしれない」と書いている。多くの詩人が震災のことを言葉にしている。多弁な詩人もいれば、寡黙な詩人もいる。それは、心の奥から沸き上がる言葉に忠実だからだろう。無理に言葉にしなくても、思い続けることで何かが生まれる。竹内氏は続けて書く、「被災した人たちへの思いを胸に、そのような人たちへの思いを持ち続けること。それはこの矛盾に満ちた人間のありよう、この人間がつくりだしている文明のありようの底までを見ようとしながらのことばであるはずだ。」と。そして「そのように思いを持続しながら、どんなちっぽけなことでも今、自分が出来ることを行うしかないのかもしれない」と、自然が起こした強大な暴力に対してあまりにも無力な人間の有り様を率直に表現している。その竹内英典氏は、同じ『ACT』Vol.347 2001年6月号で詩「手についての断章」を載せている。この詩は、震災前に書かれてたものなのか、震災後に書かれたものなのかわからないが、自然をも支配しようとして傲慢になった人類への警告とも思える作品であり、その中のある一行の言葉が頭を離れず、自分の思いから消えないでいる。その言葉を引用させていただく。

        (前略)

   人間の手を拒否したちつづけることが見上げる君たちに託す希望なのだと

        (後略)

                  詩「手についての断章」部分
12:11:26 | tansin | | TrackBacks
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