Complete text -- "詩誌『詩想』vol.21"
29 April
詩誌『詩想』vol.21
このところ、精力的な活動を行っている詩誌『詩想』を拝受。まず、思ったことは、『詩想』らしさが生まれているということでした。それは、言葉がとても饒舌で、力強い表現が感じられるということです。そのことは、佐藤幸雄氏の作品「幻肢痛」や中川有一氏の作品「乱月の野辺で」で強く感じることができます。言葉で何かを表現しようとするよりも、まず言葉を発することで生まれてくる身の処し方そのものが作品となっています。どちらも、身体と強く関わる作品です。自分という存在を中心軸に据えて、詩は何かを生むものであるという、強い信念が感じられます。
佐藤幸雄氏「幻肢痛」は、失ったものの存在感を「痛」という言葉で表現しています。喪失感が虚無とはならずに痛みとなって充満する感性は、作者独特のものだと思います。痛みとはどこからやってくるのか、痛みは見えないだけに、不安であり、体全体を覆い尽くすものなのでしょう。最後の部分を引用させていただきます。
(前略)
ない部分が痛む
かってあった部分だから痛む
あった部分が今はないから痛む
今ではただの空間にすぎないから痛む
痛む部分が今では空間にすぎないからそこにある空間
そこにある空間
なにもない
部分と
全部
が
痛
い
「幻肢痛]最終部分
中川有一氏「乱月の野辺で」は、作者の独特の感性である世の中に背を向けるという態度(これは小熊が詩集『里余の旅』を読んで強く感じていることです。)によって生み出される情緒が美しい作品です。作品として何かを表現しようとしているよりも、言葉が言葉を生むことで読む者を作品の世界に引き込む力強さを持っています。佐藤幸雄氏の作品と共通するところは、言葉にリアリティを求めているということです。この求める態度は、『詩想』の真骨頂なのだと思いました。
中川有一氏「乱月の野辺で」から、最終部分を引用させていただきます。
(前略)
ぼくはさらに野を分ける
しかし 水の流れは途絶えて
たどる指針が見あたらないまま
うつろい
捨て去られるぼくが
ためらうことなく
捨てられるはずの荷とともに
悄然と
野に立ちつくしている
月はまだ出ているか
「乱月の野辺で」最終2連
08:43:25 |
tansin |
|
TrackBacks
Comments
コメントがありません
Add Comments
トラックバック