Complete text -- "日和田真理『森へ行く日』"
15 September
日和田真理『森へ行く日』
表現する行為は、宇宙を感じる行為と言い換えてもよいと思う。自分が生きている時間や空間が、密度の濃いものとして、感じられること。そして、生きていることの証明として、何かが生み出され、何かが失われてゆく。この生成と消失の繰り返しが、私たちの精神をより新鮮に保つための、力となり、生命力となっている。
日和田真理の詩集『森へ行く日』を読みながら、そんなことを考えていた。それほど、この詩集は宇宙を感じさせるし、生命を感じさせる。言葉が、とても新鮮に響いて来る。これは、有るものばかりを表現しているのではなく、失ったものを多く表現しているから感じられるのだと思う。この否定的表現を含めた喪失感がとてもさわやかな詩集である。
例えば、作品「鳥」の中の次の表現からは、作者の宇宙を感じる無限の感性がひしひしと伝わってくる。
(前略)
ここで私たち 生きていけるだろうか 私たち無いもの
のように在り続ける事はできないだろうか 私を呼吸しは
じめている少年たち 私の無くした重さのひとつと全部
そしていつか私のような少年
(後略)
「鳥」部分
言葉は、自由自在に、そしてなんの束縛もなく、自然と生まれ出てくるようだ。表題作「森へ行く日」の冒頭の詩語は美しく響く。
背中に光がとどまってしまったので
腰をおろして 肩に残るかすかな匂いを
嗅いだ
「生きた事」は 肩に残るかすかな匂い
というのは 多分違う
(後略)
「森へ行く日」部分
とても、バランス感覚がよい詩集である。それは、作者が存在と非存在の均衡を保つ平衡感覚を身に付けているからだろう。そして、それを言葉で表現できる表現力を持っているということなのでしょう。
久しぶりに、生きることとはどういうことなのか、感じさせてもらうことができた。
12:16:33 |
tansin |
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