Complete text -- "金子拓展 project N 63 (於:2016年東京オペラシティアートギャラリー)"

24 January

金子拓展 project N 63 (於:2016年東京オペラシティアートギャラリー)


 詩詩『回生』として私が継続開催している「無意味な意味の尾形亀之助読書会」の良き理解者であり、協力者である金子忠政氏のご子息金子拓さんの個展を東京オペラシティアートギャラリーで見てきました。私にとって、金子拓さんの父である金子忠政氏については、ここ数年の間で量的にも、読み込む集中度においても、最も多く、そして高く接している詩人です。そのことは、私なりの理解が強固に確立している詩人であるとうことが言えます。それ故に、私にとっては、金子拓さんの絵画作品群を見るに当たって、この歪な距離がまず、気になりました。そして、なるべく先入観を振り払って見ることに集中したつもりでした。しかし、それは所詮、無理なことだと、見終わってしまった今、思っています。


 先入観を持たなければならなかったということを、もっと具体的な過程としてくどくなりますが、まず書かせていただきます。それは、この東京オペラシティアートギャラリーのプロジェクトNという金子拓さんの展覧会は、東京オペラシティアートギャラリーと縁がある故難波田龍起氏の意志を引き継ぎ、若手の育成・支援を目的として開催されている展覧会シリーズです。ですから、この63回目となるプロジェクトN にどうして金子拓さんの一連の絵画が選ばれたのか、美術館としては説明する必要を義務として感じているようです。その現れとして、この展覧会の会場に置かれているパンフレット、あるいはホームページでの展覧会の案内ページにおいて、東京オペラシティアートギャラリーのチーフキュレーターの堀元彰氏が「現代の黙示録ー金子拓の絵画」として、金子拓さんの絵画のかなり詳細な説明文が掲載されています。画家にとっては、このように視覚物について、受け取った感想を文章という人の思考で書かれることは、それが当然に意外なことであっても、とてもありがたいことではないかと思います。そして、私は、その文章を読んで、父の金子忠政氏の詩の作品群との類似性を感じてしまったということです。

 絵を見る前に、そんな経過を辿って、1月22日に新宿から、複雑な構造(単に初台へ行くためにどのホームで乗って良いのか解らないということです。そこで道に迷って、自分が自分自身にちょっと憤慨してしまって、ある興奮状態でこの展覧会を見ることになってしまったということを言いたいのですが、)となっている京王線に乗って会場へ向かいました。

 そして、できる限り、前述の先入観(感情も)を消して鑑賞させていただきました。

 最初に出会った作品が、「さむい日ー日のさしこまない黒い土ー(その2)」です(ちなみに、会場に置かれているパンフレットは、どの作品がどの場所に置かれているかを示すレイアウト図が掲載されており、どの作品が会場の壁のどこに配置されているのか、そこに書かれていますが、作品ナンバーと実際の配置場所は違うような気がします。なので、これを書いている時点で、作品名と実際に私が想像している<あの作品>とは違っている可能性があります。)。

 以下は、私の絵を鑑賞しながらその場で書いたメモです。

 ・とても暖かい筆のタッチ
 ・奥が明るい(つまり奥には日が差している)
 ・タイトルに反逆している
 ・森の木々が一本一本が明瞭に描かれている
 ・どうしてだろうか?
 ・陽があるからだろう
 ・さむくはない
 ・奥行きが感じられ素敵(特に遠距離で見ると)

 次に展示されている(入り口からの動線で見てゆくと2番目の作品です(入り口を入ってくると正面に据えられている、最初に眼に入ってくる作品です。)作品は、「さむい日ー水辺ー」です。この絵は、展覧会の案内状に掲載されている作品です。誰が、ダイレクトメールにこの絵に選んだのかは解りませんが、金子拓さんの作品の特徴を示している、もしくは代表的な作品、または作者本人が特定の想いを持つ作品と言えると思います。



 この絵につての、私のメモです。

 ・誰が<さむい>のだろう
 ・湖がきれい
 ・光を使っている
 ・タッチは暖かい、鋭角ではない、どうして?

 この作品は、他の作品、例えば「ちり(犬が番人のように存在している作品)」という作品と共通性があると思いました。それは、人が立っている地表が丸く凸凹に盛り上がって、まるで死人が人の形を失って土になって存在しているような印象を受けます。そのように、「さむい日ー水辺ー」では、右側には死んで水際に重なり合っている魚がうごめいていますが、左側の草はその魚のようにうごめいていて、形をなくしているというよりも、生まれ変わり、物の変化(へんげ)、死者か生者かわからないという、輪廻のような印象を持ちます。

 こんな風に書いてゆくと、切りが無いので、会場で私が書いたメモを載せてゆきます。

 「ちり(犬が描かれている)」(上記作品です。)
  ・犬が番人?
  ・死人が丸くなっている
 「ちり」(上記作品の次に陳列されているもの)
  ・アメーバ
  ・ぞうはく(注:自分でも意味不明)
  ・仕業
  ・される
  ・何かモヤモヤ
 「ちり」(上記作品の次に陳列されているもの)
  ・森
  ・きれい
  ・白とのコントラスト
  ・手前の木の明るさ
  ・「さむい日ー日のさしこまない黒い土ー(その2)」の表現と同じ
 「ちり」(ドクターが描かれている)
 「ちり」(建物が描かれている)
  ・北白川小学校(注:私が入学した小学校です。今でも、当時の木造の校舎が残っています。)
  ・電灯(黄色い窓)がきれい
 「ちり」
  (何か書いているけど、判読不能)
 「ちり」(上記作品の次に陳列されているもの)
  ・キャンバスの地を残す
  ・白黒
 「ちり」
  ・立体的
  ・キャンバスの横まで塗られている
 「光景ーささやきー」
  ・木々の
 「光景ーささやきー」
  ・驚く人の人
  ・思い出
  ・ランチしている人
  ・自然の中
 「光景ーささやきー」
  ・ひそひそ話
 「さむい日ーさやさや」(2012年)
  ・なにが寒いのか
  ・心が
  ・自然が
 「さむい日ー馬ー」
  ・孤立



    頭が痛む
    孤独とも言えないらしい 頭が痛む
    走る人と馬の 頭が痛む
    イタイのではない
    痛むのだ
    そう
    心が痛むというふうに

「明るい夜ー散歩ー」
「明るい夜ー散歩ー」
  ・岩



「明るい夜ー散歩ー」
  ・足
  ・草達
「明るい夜ー散歩ー」
  ・大木に手を添えて歩く人
  (後記:木の存在の安心)

 今、これらのメモを見ながら、私は反芻しています。まず、光の表現にとても惹かれる(気になる)ものがありました。そして、一連の「ちり」という小作品は、忘れ去られる(た)モノを、気配として次々と描いています。「ささやき」という作品にもその気配を感じます。金子拓さんが描いているものは、その気配ではなかと思います。そして、それは光、それも暖かな光です。そういう意味で、私の見終えた感想は、「明るかった」というものです。それは、「希望」という未来への期待を持たせるような安易な明るさでは決してないのですが、例えば、見えないモノを映し出している、そんな明るさです。そういう意味では、希望なのではないでしょうか。そこに寓話があるのでしたら、堀元彰氏が書かれているような<現代の黙示録>となるのでしょうが、そこは私には解りませんでした。

 ※ このブログに掲載した作品は、パンフレットの写
  真をiPhoneで撮ったものですので、実際とはかなり
  色調や構図が違います。


 
01:31:06 | tansin | | TrackBacks
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