Archive for August 2013

26 August

中川有一『累月の空』




 中川有一氏から詩集『累月の空』が届いた。いや、正確に記せば、この詩集の編集者である西田朋さんから届いたと書くべきなのだろう。

 私は、中川氏の作品を、彼の詩集『里余の旅』や詩誌『詩想』の中で幾つかを読んでいるが、記憶を辿らなければ、中川氏のこれまでの作品が、どのような姿形だったのか思い出せないでいる。確か、彼の詩「乱月の野辺で」について、かつて自分の詩誌のコラム「情報短信」の中で触れた文章があったはずである。それを探し出して、今、読み返している。そこで感じたことは、今度の詩集は、そのときに私が感じた印象とやや違っているようなのである。詩が塊となり、詩集という山となると、複数の互いの作品が引力のように関係しあって、全体の雰囲気を作り出すようである。私は、一つの樹は語ったが、森を見てこなかったのかもしれない。

 言語への強いこだわり、言葉による表現が強い現実感、言い換えれば身体性を持つという詩想ぐるーぷの特徴が、この詩集ではさらりと風景の中に溶けており、「痼り」とはなっていない。つまり、視界を遮る障害物があまり見あたらない。それが“累月の空”という風景なのだと思う。思い込みの強い印象深い言葉遣いというよりも、どちらかというとその「痼り」が溶け出した薄い存在感の中で、言葉の抒情という味わいが風景に滲み出しているという感触を持った。しかし、他の詩人に比べれば、言葉へのこだわりは相変わらず強い。けれど、それは透明な色を持っており、激しく身体を染め上げようとはしない。肉へ食い込むのではなく、当たり前のように周りの景色、あるいはそのときの作者の心の風景に溶け込もうとしているかのようである。それは、まるで死を悟った年老いた象が、自然に帰ろうと草原の中へ消えてゆく「様」のようである。

 「累月」とは、これから積み重なる年月ではないであろう。そうではなく、これまでに積み重ねてきた過去の来歴なのだろう。「空」とは、幾重にも塗り込められたその時々の意識の先にある自分を投影した表情なのであるだろう。

   記憶とは何だろう
   そしてそれにまとわる
   実体の不確か
   何が真実で
   何が不実であるか
   境界を確定することなく
   その探索は
   日々の褶曲に埋もれるだけだ
   あるいは そうした理念自体が
   幻影にすぎないものなのか
   誰が知り得るというのだろう
   風霜の履歴から
   あえかりに滑り落ちる過去は
   等しく密かにこぼれ落ち
   やがて荒れ野の地衣を浸し
   静かに枯れ土の
   表層へと消えて行く


        詩「シャルルヴィルへの道」冒頭の一連

 この詩集は、自分の来歴を歴史の中に同化させようとする意識と、存在した「個」としての確かなものとしてこの世に残そうとする意識のせめぎ合い、あるいは表裏の繰り返しなのだという気がする。それが「褶曲」という言葉で、何度も現れる。中川氏にとって、出来事とは、全てが揺れ曲がり、過去から今に向かって硬い甲羅と柔らかな白い腹を交互に捻らせながら流れてきている物体である。さらにそれは、未来に向かって、消えてゆくという感覚に収束してゆく。

 その意味から、彼の「想い」の最たる表現は、詩「幼年」に結実していると感じる。この詩の心地よさは、いったいどこから来るのだろうか。作者は、自身のことを、他の詩ではドラクロアやランボーなど異形の地への来歴の言葉を借りて間接的に表現しているが、それらの作品はイメージしやすいという意味で、実に心地よい。さらに、その心地よさが、詩「幼年」においては、ギリシャ神話の登場人物の来歴を借りて、自分自身のことに収束していっている。そこには、紛れもない作者自身のものでしかない景色が存在している。

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 ここまでの文章が、最初に私が詩集『累月の空』を読み始めた感想である。次から記述するのは、その後、何度か静読してから思ったことである。

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17:21:58 | tansin | No comments | TrackBacks